第八十三章 風が遺すもの
モンマルトルの丘の上、
かつて修道院があったその跡地に、仮設ながら壮麗な構造体が組まれていた。
それは壁でも屋根でもなく──
風の軌跡そのものを「線」で浮かび上がらせた建築だった。
吹き抜けの回廊。
地中から立ち上がる共鳴管。
声なき声を受け止め、共鳴し、次の誰かへと送るスリット。
名もない構造。
だがそこには、確かに「誰かがここにいた」という余韻が残るよう設計されていた。
**
パブリックレビューの前夜、
司郎とあやの、梶原、甲斐のチームは最終点検を終え、
風の中にただ身を置いていた。
「……なんもないようで、全部あるって感じだな」
梶原がぽつりと呟いた。
「音楽ってそういうもんじゃない? “余白”が聴かせるのよ」
司郎は、初めて少し楽しげに言った。
**
展示の当日。
誰が発言するでもなく、
建築が「語った」。
来場者たちは、その場に“聴く”という行為を残していく。
──ひとりの老婆は、共鳴の中に子どもの歌声を聞いたという。
──若い記者は、通気孔のうなりに祈りのような声を拾ったと綴った。
──かつての住民は、風にあたりながら涙を流した。
言葉はなかった。
それでも、確かに「誰かの記憶」は響いていた。
**
レビュー終了直後。
審査団の一人がぽつりと漏らした。
「……これは、芸術なのか、建築なのか」
「わからない。だが確かに、何かが“届いた”ように思える」
それは最高の賞賛だった。
**
その夜、丘の上の一角に、
司郎とあやのが静かに座っていた。
「……司郎さん」
「なによ」
「“風は記憶を運ぶ”って、信じていいのかな」
司郎はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「それは、“あんたが信じたことが、誰かを救ったかどうか”で決まるわ」
「で──どうだった?」
あやのは、風に真珠色の髪を揺らされながら微笑んだ。
「……救われた人が、いた気がする」
**
その時。
共鳴パイプのひとつが、かすかにハミングのような音を奏でた。
それは、偶然ではなかった。
この土地の風と、あやのの設計が、
かつて消された声たちに“居場所”をつくっていたのだった。




