第八十一章 沈黙の設計者
異変は静かに訪れた。
現場監理チームの一人、フェルナン・ローラン。
技術屋として誰より几帳面で、現地の建材事情にも精通し、
“建築の沈黙を守る男”として信頼を集めていた。
その彼が──突如、プロジェクトから姿を消した。
梶原が現場で異変に気づいたのは、朝8時の定例点検のときだった。
「フェルナンの工具が全部なくなってる。
通行証も、現場記録も。……消されたみたいに、跡形もない」
だがそれは、ただの“離脱”ではなかった。
彼が持ち出していたのは、設計図の中でも特に重要な《風の回廊》の接続レイアウトだった。
そこには、「風が語る声」を最大化する構造が記されていた。
「……つまり、“一番重要なルート”が敵の手に渡った」
司郎の言葉は冷酷だった。
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あやのは信じられなかった。
ローランはかつて、何度も“失われた声”の意味を語っていた。
この計画に心を打たれて合流したはずだった。
「彼の家族、20年前の移住で家を失ってた。自分の“声”がここに重なるって……私、信じてたのに」
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その夜、甲斐があやのに一通のメールを見せた。
差出人不明。件名「“塔の記録”を消せ」。
内容は短く、こうあった。
《沈黙の塔》計画に関わった者は、すでに処分されている。声を保存するなどという幻想は、二度と再生させてはならない。
そして、末尾には見覚えのある“名”が添えられていた。
──K.G.
あやのが小さく呟いた。
「……甲斐玄道……」
甲斐大和の、叔父の名だった。
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数日後。
フェルナンが再び現場に現れた。
だが彼は、もはや「プロジェクトチームの一員」ではなかった。
かつての誠実な目は消え、
その手には、財団によって差し向けられた調査官証があった。
「プロジェクトの即時停止を要求する。この計画には、公共の利益を損なう可能性がある」
あやのが立ち上がった。
「何を言ってるの。あなたは……あれだけ、声を守りたいって」
「守りたかった。……でも、もう終わったんだ」
フェルナンの声はひどく乾いていた。
「俺は家族を守る。あんたたちは、“亡霊”に付き合いすぎた」
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その時、あやのの中で“音”が消えた。
彼女は言葉を探したが、どんな響きも虚ろだった。
声を失うとは、こういうことなのだと知った。
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その場を、司郎が制した。
「いいわ。 “あんたの音”はここまでってことね」
「でもこっちは、まだ演奏中なの。静かに聞いてなさい。フィナーレは、うるさいわよ?」
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フェルナンが去ったあと、
あやのは静かに目を閉じた。
風が窓を揺らしていた。
だが、そこに“悲しみ”はなかった。
「……“信じる”って、
最初から壊れるかもしれないものを抱えることなんだね」
梶原が言った。
「それでも、お前が信じたから……
ここまで、風は届いてきたんだと思う」




