第七十九章 沈黙を選んだ者たち
甲斐大和の手の中で、電子ファイルが淡く光っていた。
そこに記された記録──
20年前、パリ郊外で行われた**“音響記録実験”。
事故により中止となったそのプロジェクトには、彼の叔父・甲斐玄道**の名があった。
当時、世界各地で進められていた「記録都市構想」。すべての音を記録し、未来へと継承するアーカイブ・シティの夢。
だがその理想は、
“想起されてはいけない記憶”までも残してしまうことへの恐れから、
幾つものプロジェクトが圧力によって消されていった。
「残すのは、文化だけでいい。
苦しみや失敗は、人類の進化に不要だ。
音は、美しいものであるべきだ」
叔父がかつて発した言葉が、今、甲斐の耳に焼きつく。
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仮設事務所。
あやのはリマから受け取った資料を見ながら、模型に風の流れを重ねていた。
事故があった場所、強制移住が起きたブロック、そしてそこに残されたわずかな記憶──
それらを**“建築のスリット”として組み込む**ことで、
「聴こえない声を、風で可視化する」デザインが浮かび始めていた。
司郎が静かに言った。
「“語られない歴史”は、語られないまま死んでいく。でも建築は、それを“語らせずに残す”ことができる。音が吹き抜ければ、誰かが気づく。その仕組みがあれば、人は耳を傾けるわ」
**
梶原が手を止めて、言った。
「壊されても、また組み直せばいい。あの子たちの声を、風に乗せて聴かせるために──何度でも、な」
**
そして夜。
甲斐大和は、父・甲斐雅人との暗い通話に踏み込んでいた。
「叔父は……“実験を潰した側”にいた。
あなたはそれを知っていたんですか」
「知っていた」
父の声は静かだった。
「だが、我々は正しかった。 “全てを記録する”という思想は、世界を破壊する。忘れるべき声もある。黙らせるべき記憶も」
「……それは、人が決めることじゃない」
甲斐の声が震える。
「過去が痛いからって、未来ごと閉じるなんて……そんなことのために、今のプロジェクトを壊させはしない」
「お前があの女の側に立つのなら──」
父の声が一段低くなった。
「“甲斐”の名を捨てる覚悟があるのか?」
**
沈黙のあと、甲斐は短く答えた。
「あるよ。……最初から、俺の名は借り物だ」
通話が切れ、虚空に戻る夜。
だが、彼の中では風が吹いていた。
あの子の声が、静かに響いていた。
「声がなくても、通じ合えるって知ってた」
あやのの言葉は、甲斐にとってかつて“奪ってしまった側の人間”の記憶を、静かに掘り起こしていた。




