第七十七章 音もなく、誰かが壊している
最初に異変に気づいたのは、梶原だった。
仮設工事の朝。
彼が現場に入ると、前夜設置したばかりの共鳴パネルが、
丁寧に──しかし確実に壊されていた。
叩かれた跡はない。
ネジが外され、骨組みが“解体”されていた。
「……誰かが、知ってる手つきでやってる」
まるで“騒音を出さずに”破壊するように。
そこにあったはずの“風の導線”が、何事もなかったかのように消えていた。
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仮設事務所で報告を受けたあやのは、沈黙したまま立ち尽くす。
パネルは、住民の声を「音に変換」するための中核。
設計の魂とも呼べる部分だ。
「……何も盗まれてないんだね?」
「はい。工具も、装置も、記録も」
「“意思”だけ、壊されてるってことか……」
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司郎が、長く深いため息をついた。
「つまりこれは、“設計の否定”ね。しかも音を立てずに、何食わぬ顔して」
「バールで壊すより、こっちのほうが性質が悪いな……」
梶原が眉をひそめる。
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甲斐がその場に姿を見せたのは、少し遅れてからだった。
「……俺がいない間に何があった?」
「壊されたのよ、“声の道”が」
司郎の声に、皮肉の棘が混じる。
「で? 向こうはなんて?」
甲斐は一瞬、答えを躊躇したが、静かに首を振った。
「……“風の道”案に、正式な支援は下りなかった。
ただし並行設計の条件で、一定期間は続行可能。
“成果が出なければ中止”という条件つきで」
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あやのは、頷いた。
「……じゃあ、“壊してでも止めさせたい誰か”が、もう動いてるってことだね」
「誰が? 誰にメリットがあるんだ?」
甲斐が口を挟むと、司郎が乾いた笑いを漏らした。
「そりゃ“風を聴かれると困る人たち”よ。黙らせておきたい声が、ここには山ほどあるってことじゃない?」
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その日の午後、あやのは現地住民のワークショップ会場を訪れた。
壊されたパネルの話をすると、誰かが目を伏せた。
だが、誰も口を開かない。
その沈黙の中で、あやのは確かに感じた。
──この中に、“壊した者”がいる。
だが同時に、誰もが「それを声にする権利を持っていない」ことも。
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夜。
仮設事務所に戻ると、風の音がやけに強かった。
あやのは、かつての妖怪の里を思い出す。
沈黙の中にある“怒り”や“抗い”。
それらが言葉にならないまま、風の揺れとして伝わってきた夜。
「……ねぇ、司郎さん」
「なによ」
「声を持たない怒りって、どうすればいいと思う?」
司郎はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「目を背けないこと。それから、声が届くまで、耳を塞がないことよ」
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あやのは頷いた。
風は、吹く。
どこからか、誰かの名もなき声を乗せて──
その声を、建築に変える。
それが、自分たちの使命だと知っているから。




