第七十五章 風の道を描く手
仮設オフィスの一室。
白い壁には現地住民の動線、子どもの遊び場、野良猫の通り道、屋台の時間帯など──
さまざまな「生活の音」がマッピングされていた。
それらを繋ぎ合わせるように、あやのは鉛筆を走らせていた。
「……風の通り道って、空気の流れだけじゃない。
ここで暮らす人たちの“気配”も、風の一部になると思うんだ」
彼女のスケッチは、建築としての厳密性というより、
感覚的な“重なり”のような線で描かれていた。
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だがその柔らかいアプローチに、思わぬ反発が生まれ始める。
中東系の住民代表──アミール・シャファールは、
あやのたちが持ち込んだ「共鳴する広場」案を前に、苛立ちを隠そうとしなかった。
「──あなたたちは、また“ヨーロッパ人の感性”で、
この街を“美しく変えよう”としているだけじゃないのか?」
「私たちはもう十分、**“美しい顔をした支配”**に苦しんできた」
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あやのは、反論しなかった。
ただ、手帳を開いて見せた。
そこには、地元の子どもが描いた小さな風車の絵と、名前が添えられていた。
「昨日、この子が“風の見える場所がほしい”って言ってくれた。私たちが作るのは、その子のための場所であって、都市開発の名を借りた征服じゃない」
「……でも、そう思われてしまったなら、何かが足りてないんだと思う」
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それを見ていたアミールの妻が、ふと漏らした。
「……あなた、ほんとに聴くのね。
“伝えるための声”じゃなくて、“受け止めるための沈黙”を」
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その夜、あやのはひとりで夜の町に出た。
移民地区の細い路地に入ると、見慣れぬ言語で書かれた看板、異国のスパイスの匂い、子どもたちの笑い声──
そのどれもが、「都市」という名の下で沈黙させられてきた“声”だと思った。
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帰り際、司郎が設計図を広げながら言った。
「これだけ文化が交錯してると、素材も構造もルールも全部変えないとダメになる」
「……だけど不思議ね。風だけは、誰にも分け隔てなく吹くのよ」
「だから“風を聴く建築”っていうのは、案外、そういう矛盾の真ん中に立てるのかもしれないわ」
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翌朝。
新たに住民たちを招いたワークショップが開かれた。
建築家が設計するのではなく、住民が“ここに何を残したいか”を語り、あやのたちはそれを受けて、紙と模型の上に風の道を「聴き取りながら」描く。
次第に、最初は懐疑的だった人々の中にも、何かが変わりはじめた。
──声を発してもいい、と思える空気。
──沈黙が責められない、という時間。
そういった**「建築以前の空間」**が、ほんのわずかに生まれ始めたのだった。
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だがその静けさを打ち破るように、
プロジェクト本部から通達が届く。
「予算削減。再構成を要請。記録型施設への転用を再検討せよ」
甲斐大和が選んだ“あやの案”への圧力が、
ついに表面化する。




