第六十八章 音響と構造
「来てんじゃない……」
ハーネスに吊られ、わずかに揺れるライトの下。
司郎は塔の心臓部へと、黙々と降りてきた。
下から上へ伝ってくる、微細な振動。
それは明らかに人工のものだった。
機械ではない。人の意志によって発せられた“音”そのもの。
──沈黙が、叫んでいる。
**
最後の階段を降りた先、塔の最底部。
そこにあやのがいた。
彼女は、石の床に膝をついたまま、動かない。
目を閉じ、まるで祈るように、掌を塔の中心へ。
その周囲に、音が浮かんでいた。
まるで空間そのものが水になり、
言葉が泡のように立ちのぼっては弾けている。
それは、誰かの“記憶された声”。
それも、1つではなかった。
何十年もの人間の声が、交錯していた。
「……工期、間に合わない」
「……この設計思想自体、間違ってたのかもしれない」
「──あなたがいないと、やっぱり駄目なんだよ」
司郎はすぐに理解した。
これは音が物理的に“浮いている”わけではない。
──床下に仕込まれた音響プレートの振動によって、音が可視化されている。
──しかもそれは、音源なしで再生されている。
「……重ね録音型の共鳴板……それも、共振周波数でロックされてる」
司郎は呆れたように眼鏡を押し上げた。
「狂ってるわね……設計者」
彼はあやののそばにしゃがみ込むと、慎重にその肩へ手を置いた。
「……起きなさい。音が暴れ始めてる」
あやのはゆっくりと目を開けた。
その瞳の中で、複数の“記憶された声”が揺れていた。
「司郎さん……ごめんなさい……私、全部聞こえてしまって……」
「いいのよ」
司郎はその手を取り、ゆっくりと立ち上がらせた。
「“声”は悪くない。構造が悪いだけよ」
そして、床の中央にあるスリットへ手を差し込む。
小さなパネルが外れ、内部から円筒形のコアが現れる。
「やっぱりね。サウンドメモリ・チャンバー。
塔の中に、“音響の心臓”を作ってたわけ」
再び塔が震えた。
今度は、あやのの声が塔中に響き渡った──
**「司郎さん」**という一言が、構造体全体に染み込むように。
司郎は冷静に、小さな工具を取り出す。
「共鳴ループが始まってる……このままじゃ、内部で音が無限反射して崩壊するわ」
「止められるんですか……?」
「止めるわよ。あたしが設計してない建物に、あたしの娘の声が永遠に残るなんて──気持ち悪いじゃない」
静かに、パネルの奥の“共鳴芯”を取り外す。
その瞬間、音がすっと、空気から消えた。
沈黙が戻った。
**
あやのが、立ったまま泣いていた。
「……あの人の声、父親かどうかもわからなかったけど、でも……**“娘にだけは届いてほしくない”って、そう願ってたのに……」
司郎は無言であやのの頭をぽんと叩いた。
「バカね。アンタは“聞いた”んじゃない。
“その願いの重さに耳を貸した”だけよ。」
塔の天井から、遠く地上の光が、ほんのすこしだけ射し込んできた。
その柔らかな逆光の中で、二人は黙って上階を見上げた。
──物語はまだ、塔の外に続いている。




