第六十七章 沈黙の記憶
息を殺して耳を澄ましたわけではない。
それでも、確かに“聴こえた”。
沈黙の塔、最下層。
その中心にあった石の床──あやのが触れたその一点から、静かに、音が滲み出すように流れ込んできた。
──記録ではない。
──幻聴でもない。
**音の形をした“記憶”**だった。
最初はただの環境音だった。
機械の低いうなり。階段を下りる靴音。紙がめくられる音。
それらが立体的に配置され、まるでその場に立っているかのように響いてくる。
次第に、それは「声」へと変わった。
「……外部委託、取り下げろ。これはうちだけで進める」
「崩壊リスクは無視できません!このままでは……」
「音響は問題ない。余計な“音”さえ入れなければ、な」
静かで、だが決して冷たくない中年男性の声。
明瞭に「責任」を負っている者の語り口。
ただ、その責任が誰に向いていたかは、わからない。
「私たちの声が、残る。だったら、それでよかったんだよ──最初から、そういう“器”だった」
──この声を、あやのは知らない。
けれど、知っている感覚がした。
言葉より先に、“空気”がわかる。
この声の人間は、
かつてここにあった「世界文化機構前身団体」の主任設計士。そして、この“沈黙の塔”を最後に、失踪した建築家──
「……娘の声だけは、どうか、ここに残らないように……」
「それだけが、お願いだ。……彼女に、聞こえませんように……」
その一瞬、音が凍った。
まるで空気が逆再生されたように、音の流れが巻き戻る。
床に手をついたままのあやのの掌に、かすかに「他人の震え」が伝わってきた。
冷たい石の感触に、重なる涙の跡。
──ああ、この塔は
──誰かの“後悔”を抱いたまま、沈黙したのだ
**
あやのは、そっと目を閉じた。
彼女には、母がいなかった。
そして、育ての親──ぬらりひょんの声も、誰かの“記憶”の中で聞くような、
遠くて、やさしくて、決してこちらへ戻ってこない声だった。
「……あなたの“娘”は、きっと聞かない」
あやのは小さく呟いた。
「けど私は、聞いてしまった。
だから、その声の続きを、私が引き受けます」
その瞬間。
床下の構造から、かすかに「誰かの息」が返ってくる。
沈黙は、終わりを迎えようとしていた。
──次の共鳴が、塔の上階に伝わる。
司郎のセンサーが、それを正確に感じ取るのは、あと数分後のことだった。




