第六十五章 共鳴のひずみ
午後14時。塔に入ってから約6時間が経過していた。
補修チームは第五階層で作業中だった。
司郎と吉田が音響壁の亀裂を調査し、梶原は構造材の補強を進めている。
ただ、どうにも報告が噛み合わない。
「この壁、二箇所目のひびだよな」
吉田が司郎に声をかけた。
だが、司郎はきょとんとした顔をした。
「一箇所目? どこに?」
「……いや、今さっき、俺がマークしたじゃん」
吉田が指差す。
だがそこに、ひび割れは存在しなかった。
「……マークの残りもない。おかしいな」
吉田は訝しむが、司郎は静かに首を横に振った。
「おまえ、空間の歪みを見てるんじゃないか?
ここ、上下だけじゃなくて“音の共鳴方向”が変わってる。目がついていかないんだ」
**
一方、梶原の作業場では別の問題が発生していた。
補強材が「寸法どおりに切ったはずなのに、嵌まらない」。
「吉田。さっき渡された図面……第五層の断面、20ミリずれてるぞ」
「は? いや、そっちは俺が確認した。ぴったりだったはずだろ」
「お前の“はず”と、俺の“今”が合ってないんだ」
梶原は鋼材を持ち直しながら、低くつぶやいた。
「……なあ、これって、俺たちの中で**“時間の進み方”がズレてるんじゃないか?」**
吉田が冗談めかして返した。
「SFかよ。寝不足なだけじゃね?」
が、そのときだった。
塔内に、誰かの咳払いが聞こえた。
明確な“音”。
方向性がなく、ただ空間全体から染み出すような、誰ともつかぬ咳。
チーム全員が、即座に手を止めた。
咳をした者など、いない。
「……あやのは今、最下層の沈黙域にいる。音が外に出るはずがない」
甲斐の声が、わずかに震えていた。
吉田が囁いた。
「……録音か?」
「いや……」
司郎が、壁に指をあてる。
「これは今この場で、生まれた音だ」
**
咳だけでは終わらなかった。
それから数分おきに、誰かが名前を呼ぶような声が、小さく混じるようになった。
「……吉田」
「……こっち」
「……梶くん」
あやのの声だった。
だが、それは明らかにおかしい。
・言葉が不自然に遅い。
・音が、塔のどの方向からもしていない。
・それでいて、身体の“内側”で鳴っているように感じる。
司郎が、ぽつりとつぶやいた。
「……この塔、“音”を使って、俺たちの記憶にアクセスしてるのかもな」
沈黙が落ちる。
“幻聴”か、“記録音”か。
誰も断定できなかったが──
それが、「ただの気のせい」ではないことだけは、全員が感じていた。
**
「引き返すか?」
と、吉田が訊いた。
甲斐は即答しなかった。
代わりに、筆談ボードにだけこう書いた。
《ここでやめたら、この塔の“音”だけが世界に残る。
俺たちは、音の責任者になってしまう。》
誰も、反論しなかった。
その時、塔の底から、再び“あやのの声”が聞こえた。
けれど、それは録音でも幻聴でもなかった。
──「聞こえていますか?」──
それは、正真正銘、いま彼女が発している言葉だった。
“沈黙の心臓”が、共鳴を始めたのだ。




