第六十三章 響かぬ塔
夜明け前。
白い空が、パリの東を静かに染めていく。
出発は極秘の車列だった。
あやのと梶原は一台の車に、司郎と吉田、甲斐は別のルートで向かう。
会話はない。
けれど、その沈黙はどこか心地よくさえあった。
あやのは膝の上で指を組み、窓の外をじっと見つめていた。
「……寒くないか?」
と、梶原がぼそっと訊く。
「ううん、大丈夫」
あやのは微笑んで答えたが、梶原はそっと彼女の肩にブランケットを掛けた。
車は郊外へ出て、森の中の未舗装路を走り始める。
数分後、木々の切れ間から、それは姿を現した。
灰色の塔。
無数の音を呑み込み、返すことなく、ただそこに黙って在る。
地図にも名前のない場所。
一切の電子機器が作動しない区域。
“誰も語らないが、誰も忘れていない”場所。
Echo Spire。
車を降りた瞬間、空気の質が変わった。
風の音がない。鳥の声もない。
周囲の音が、まるで塔の中に吸い込まれているようだった。
「……これが、音を殺す建築か」
司郎が口にした言葉が、やけに浮いて聴こえた。
甲斐が腕時計を見て言った。
「この中に入れるのは、最長で48時間。
内部は自己修復型の音響迷路になっている。
各自、迷子になるな。声を出すな。必要なやり取りはこれで」
と、手渡されたのは、**“筆談用の薄い磁性ボード”**だった。
吉田がうんざりした顔でつぶやく。
「今どきアナログすぎるっての」
梶原がぼそっと答える。
「……電子機器は中で壊れる。電波も、電源も、吸われるからだ」
あやのだけが、黙って塔を見上げていた。
どこまでも高く、重く、沈黙をそのまま構造にしたような異形の建築。
音が生まれない。代わりに、記憶だけが染みついている。
「……入ろう」
あやのの一言で、隊列が動いた。
扉は、開けるでもなく、ただ開いていた。
その先には、まるで音のない水の中に入るような空間が待っていた。




