第六十一章 闇より育ちて、静けさに還る
深夜のパリ。
テラスでの会話のあと、あやのは一人、ホテルの部屋に戻っていた。
カーテンを開け放ったままの窓から、夜風がそっと忍び込む。
どこか――懐かしい匂いがした。湿気を帯びた、苔と古木の香り。
遠い過去の、山の奥のにおい。
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彼女は、母を知らない。
生まれてからずっと、「母」というものを、定義の外に置いてきた。
代わりにそばにいたのは、いつも煙のような笑い声と、すり足の音。
ぬらりひょん――
老いも若きも分からぬその長は、いつも不思議な話と、茶を淹れる手だけは妙に丁寧だった。
「音っちゅうもんはな、消えたと思った瞬間が一番こわいんじゃ」
「え?」
「誰も聞いとらん音ほど、よう残る。耳にのうて、心に残る」
あやのはその言葉を、ずっと忘れられずにいた。
夜の森で、カジカの鳴く音を聴きながら、
誰にも届かない声に耳を澄ませていた子ども時代。
妖怪たちはみな、話しかけてはこなかった。
けれど、誰ひとり、あやのを“おかしい”とは言わなかった。
「おまえは聴く者だ」
そう言って、ぬらりひょんは彼女を真ん中に置いた。
言葉よりも沈黙を尊ぶ里で、あやのは音を知った。
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その頃の感覚が、いまパリのホテルの中で、ふいに蘇っていた。
甲斐の言葉は、重かった。
だがその重みすら、今のあやのには波紋の一部にすぎない。
“誰の声が届かずに終わったのか”
“どんな声が、塔に封じられていたのか”
自分のためでも、誰かのためでもない。
あやのがこの任務を引き受ける理由は、ただひとつ。
「そこに、忘れられた音があるから」
冷たい床に素足で立つ。
窓を開け、風をひとつ吸い込む。
夜のパリはうるさいほど静かだった。
けれどその下に、誰かの残した囁きが、たしかにある気がした。
あやのの目は、もう揺れていなかった。




