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星眼の魔女  作者: しろ
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第六十一章 闇より育ちて、静けさに還る

深夜のパリ。

テラスでの会話のあと、あやのは一人、ホテルの部屋に戻っていた。


カーテンを開け放ったままの窓から、夜風がそっと忍び込む。

どこか――懐かしい匂いがした。湿気を帯びた、苔と古木の香り。

遠い過去の、山の奥のにおい。


**


彼女は、母を知らない。

生まれてからずっと、「母」というものを、定義の外に置いてきた。

代わりにそばにいたのは、いつも煙のような笑い声と、すり足の音。


ぬらりひょん――

老いも若きも分からぬその長は、いつも不思議な話と、茶を淹れる手だけは妙に丁寧だった。


「音っちゅうもんはな、消えたと思った瞬間が一番こわいんじゃ」

「え?」

「誰も聞いとらん音ほど、よう残る。耳にのうて、心に残る」


あやのはその言葉を、ずっと忘れられずにいた。


夜の森で、カジカの鳴く音を聴きながら、

誰にも届かない声に耳を澄ませていた子ども時代。

妖怪たちはみな、話しかけてはこなかった。

けれど、誰ひとり、あやのを“おかしい”とは言わなかった。


「おまえは聴く者だ」

そう言って、ぬらりひょんは彼女を真ん中に置いた。

言葉よりも沈黙を尊ぶ里で、あやのは音を知った。


**


その頃の感覚が、いまパリのホテルの中で、ふいに蘇っていた。


甲斐の言葉は、重かった。

だがその重みすら、今のあやのには波紋の一部にすぎない。


“誰の声が届かずに終わったのか”

“どんな声が、塔に封じられていたのか”


自分のためでも、誰かのためでもない。

あやのがこの任務を引き受ける理由は、ただひとつ。


「そこに、忘れられた音があるから」


冷たい床に素足で立つ。

窓を開け、風をひとつ吸い込む。


夜のパリはうるさいほど静かだった。

けれどその下に、誰かの残した囁きが、たしかにある気がした。


あやのの目は、もう揺れていなかった。

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