第五十九章 遺された塔、眠る協定
パリ、黄昏。
バスティーユの裏手にある静かなカフェで、あやのと梶原、司郎、そして吉田透が言葉少なにコーヒーをすすっていた。
その場に似つかわしくない黒いスーツの男が、壁の影から姿を現す。甲斐大和だった。
「……世界が、おまえを必要としてる」
それは冗談にも脅しにも聞こえなかった。
彼の瞳には焦燥と、計算され尽くした確信が混じっていた。
「どこ?」と、あやのが問う。
甲斐は一枚の写真を差し出す。
砂漠に沈みかけた塔──崩れかけたドームと、残響のように並ぶ円形の柱群。
“Echo Spire”。世界遺産未登録、地図から消された遺構。
「アラビア半島の外縁。国境もない、名もない灰の地帯だ。
ただ、ここにある残響構造が、数十年前から世界的な対立の象徴になっている」
「……音響兵器の原型、ってこと?」吉田が低く呟いた。
甲斐は一度、黙った。
「違う。これは“記憶”を持つ建築なんだ。
声を記録し、意志を持ち、交渉の決定権すら持っていた……。
あれは、人間たちがまだ“声”を神のものとしていた時代の遺産。
『音の協定』の原型だ」
梶原の眉がぴくりと動く。
司郎も珍しく黙る。
その場に重く張り詰めた沈黙を切り裂いたのは、あやのの小さな問いだった。
「それを……再生するの?」
甲斐はうなずく。
「……おまえにしかできない。“封印されていた交渉の音”を、もう一度世界に聴かせてくれ」




