第五十八章 予兆の鼓動(プリモ・モメント)
あやのの一言に、ふたりの男は同時に顔を上げた。
「えっ、いや、別に――」
「ちょっとした現場の話ですよ。はい」
吉田が眼鏡を直しながら咄嗟にかわし、梶原は珍しく目を泳がせた。
そこへ、どこから湧いたのか、司郎のにやけた顔がぐいと割って入る。
「やーねぇ〜男同士の秘密ってやつ? ちょっとちょっと、あやの、あんた油断してると、どっちかに夜景のきれいな高台とか連れてかれちゃうわよ〜♡」
「行かないよ」
梶原の低い即答に、吉田がくすっと笑う。
「まあ、でも、冗談じゃなくてね。誰かを大切に思うって、意外と根気と間合いの勝負なんですよ」
ヘイリーがあやのの肩に顎を乗せるようにして言った。
「オトコってのはね、こういうとき一番見た目に出る。目線、声の調子、距離感。まるわかり」
あやのはきょとんとしてから、くすっと笑った。
「なんだか、みんな可愛い」
その一言で、場の空気がふわりとほどけた。
梶原は頬をほんのり赤らめ、何か言いかけたが、言葉にせずあやのを見た。
その視線に気づいたあやのは、一拍おいてから、静かに微笑んだ。
「梶くん」
「……ん?」
「あとで……ちょっとだけ、時間くれる?」
「……ああ」
たったそれだけの会話だったが、ヘイリーは大きく目を見開いてから、無言でガッツポーズを取った。
吉田はなぜか窓の外を眺め、司郎は胸に手を当てて「あらやだ、親心が限界」と嘆息していた。
そして、その夜。
パリの拠点ビルの屋上テラス。
風は静かに吹き、遠く教会の鐘が時を告げる。
ふたりきりの時間。
あやのは柵のそばに立ち、夜景を見つめていた。
隣に並ぶ梶原は、言葉を探しあぐねるように、そっと手をポケットに突っ込む。
「パリの風って、ふしぎ。冷たいのに、やさしい」
「……そうかもな」
「ねえ、梶くん」
「ん」
「わたし、いまちょっと、怖いの」
梶原は振り向いた。あやのの横顔は、笑っているようで、泣き出しそうでもあった。
「音が戻ってきて……嬉しいけど、きっとまた、どこかに持っていかれる気がして」
「持ってかせないよ」
静かに、けれど確かに返されたその言葉に、あやのの喉が詰まった。
「……なんで、そんなふうに言えるの?」
「だって――」
梶原は言葉を切り、ひとつ息を吸ってから、続けた。
「ずっと見てたから。お前が、どうやって笑って、どうやって泣くか。もう、俺の中じゃ当たり前になってる」
「……」
「俺は、お前が怖がってるとこ、そばで黙って見てるぐらいしかできないけど――それでも、逃げる気はないから」
あやのはゆっくり振り向き、梶原の目を見た。
そのまなざしに、嘘も飾りもなかった。
「ありがとう、梶くん」
そして彼女は、そっと両手を胸に当てた。
夜風が吹き、星のない空に音が生まれた。
かすかに震えるような、でも澄みきった旋律。
言葉ではなく、でも確かに伝わるものがそこにあった。
「――祈りのような歌だ」
梶原がぽつりと言った。
あやのは目を閉じ、風に乗せてその旋律をさらに紡いでいく。
彼女の中に灯った音の再生は、誰かのために、そして自分自身のために、今確かに形を成していた。




