第十五章 夜の部屋、音の舟
風が止んだ夜だった。
窓はうっすらと曇り、部屋の空気はひどく静かだった。
あやのはベッドの上に膝を抱えて座っていた。足元には羽毛布団。肩には、部屋着の上に薄い毛布をまとっている。
眠っているのでも、起きているのでもない――そんな時間が流れていた。
机の上でオルゴールがひとつ、カラコロと転がる音を鳴らした。
音は弱々しく、まるでどこかから届いた手紙のようだった。音階を持たない、ただの響き。けれど、あやのはそれを“わかる”。
彼女はそっと立ち上がり、棚からカリンバを取り出して、ベッドの端に座った。
木の音板を指先で弾くと、小さな響きが空間に溶けていく。
乾いた夜の空気を、カリンバの音がほどいていくようだった。
あやのの目は遠くを見ていた。
梶原と過ごした遠野の夜。
冷たい水をくんできてくれた手の感触。
焚き火の音。獣の遠吠え。土の匂い。
何かを「恋しい」と思うたび、音が先にやってくる。
音は記憶を呼ぶ鍵のように、あやのの胸の奥にそっと降ってくる。
天井から吊るされた、銀色の鈴は今日も鳴らない。
けれどあやのは知っている。それは、「まだその時ではない」という合図なのだと。
ベッドにもどり、膝をたたんで布団を引き寄せた。
柔らかなシーツが肌に触れた瞬間、ふわりと何かがほどけた。
部屋の壁に吊られたモビールが、風もないのに微かに揺れた。
カリンバの余韻が、まだ空中に残っている。
やがて、彼女は目を閉じた。
静かに眠る人の胸に、遠くから届くような音楽。
それは、誰にも聞こえない「心の中のコンサートホール」。
夜の奥で、あやのの呼吸がゆっくりと音と重なっていった。
まるで音の舟に乗って、眠りという名の海へ漕ぎ出していくように――。