第五十七章 誰かのための余白
誰が最初にその礼拝堂の噂を広めたのか、定かではない。
新聞に載ったわけでもなければ、SNSでバズったわけでもない。
ただ、モンマルトルの丘の中腹、修道院の中庭に通じる石段に、ぽつりぽつりと人が立ち止まるようになった。
言葉は要らない。
この場所に惹かれる人々は、皆“誰かのため”にここを訪れた。
――会えなかった誰か。
――もう語れない誰か。
――まだ名前をつけられない誰か。
それらの「誰か」が、空間に足跡を残し、風のなかへ溶けていった。
***
あやのは、修道院の裏庭にある小屋で、新しい麻糸を巻いていた。
素材は同じでも、張り方ひとつで音が変わる。
空気の湿度、外壁の反響、誰かが置いていった余白の“重さ”――
それらが、風の編み方を毎日変えていく。
そこに、手紙が届いた。
差出人不明。だが、消印はベルリン。
便箋には、短い文章が書かれていた。
「私はあの礼拝堂に行けません。でも、誰かの余白を感じました。
あれは私のためでもあったと思いたい。だから、ありがとう。」
封筒の中には、青い糸が一本、折りたたまれて入っていた。
「……司郎さん、読んでください」
あやのは、包みを手渡した。
司郎は手紙に目を通し、ひとつ息をついた。
「来ないことを選んだ人も、この建築の一部なのね。ならばこの糸、壁に縫いましょう」
二人はその夜、小さな脚立を立てて、中央の柱に一本の青糸を縫い留めた。
目立たないが、風が通るたび、わずかに震えた。
まるで、目に見えない声がそこに宿っているかのようだった。
***
翌週、スペインから一人の青年が修道院を訪れた。
翻訳ソフトでフランス語を打ち込みながら、受付の修道女に言った。
「ここに、“言えなかった人”のための場所があると聞きました。
僕の姉は、もうこの世にいません。でも彼女が話したかったことを、ここに置かせてほしい」
青年は、小さなノートを預けた。
表紙には名前がなく、ただ淡い赤い布で包まれていた。
あやのはそのノートを開かなかった。
読まずに、そのまま糸と一緒に“祈りの余白”に綴じた。
「話す前に、話したかったことは、風のほうがよく知ってるんです」
彼女はそう言って、祈るように糸を締めた。
***
ある朝、司郎が空間に入ると、壁の一角が妙に響くことに気づいた。
何も置かれていないはずの空白の区画。
それでも、空気が“重く”なっていた。
彼は、目を閉じて歩いた。
その区画の中央に立ったとき、ふと、言葉が浮かんだ。
「あなたのために作ったんじゃない。
でも、あなたが来てくれて、やっと完成した」
それが、誰への言葉なのか、わからなかった。
けれど、風がその一言を肯定するように、静かに部屋を撫でていった。
***
その日の終わり、あやのは壁にもたれて小さく微笑んだ。
「誰かのために、なんて建築できない。
でも、“誰かのためになってしまった空間”は、たぶん一番強いんです」
「風の設計、ってやつね」
司郎はそう言って、床の糸のゆれを見つめた。
祈りは名もなく、音もなく、輪郭もない。
けれど確かに、“誰か”の形に寄り添っていた。




