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星眼の魔女  作者: しろ
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第五十六章 無言の竣工式


朝から風が澄んでいた。

六月のパリの空気は、乾いて、やや白く、光に透明な輪郭を与えていた。


その日、モンマルトルの丘にある修道院では、礼拝堂の新たな空間が――

「祈りの余白」と名づけられた場所が、正式に開かれた。


だが、式典は行われない。

音楽も、神父の演説も、テープカットもなく、ただ「開く」だけだった。


「……竣工式って、こんなに静かなんですね」


あやのが呟いた。


「ええ。それでいいのよ。誰かの声が聞こえない空間じゃなきゃ、風は定着しないわ」


司郎は静かに応えた。

礼拝堂の内部には、かすかな音が漂っていた。

――糸が震える音、金属が揺れる音、壁面の漆喰に擦れる風の呼吸。


誰も話さないまま、10人ほどの訪問者たちが順に中へ入っていった。


建築関係者、修道士、芸術家、地元の老人、盲目の音楽教師、失語症の女の子。

彼らは誰も、言葉を持ち込まなかった。


 


***


 


あやのは、正面の木扉から最後に入った。

朝よりも風が重たくなっている。

誰かの心の揺れが、空間に少しずつ沁み込んでいるのがわかった。


正面祭壇はなく、その代わりに、窓のない壁が風の“画布”として張り出していた。

一切の装飾を拒否するように。

ただし、光と風はある。


「……名付けられたものは、すぐ壊れる。だからここには、名前がない」


かつて司郎が言った言葉を思い出す。


名付けられない祈り。名付けられない誰か。名付けられない空白。

――それらが、“風の骨組み”の上に密かに縫い留められていた。


 


***


 


午後、礼拝堂の片隅で、盲目の音楽教師が腰をおろした。

彼は、音を聴いていた。言葉ではなく、音の構造を。


「これは……“楽譜”のない音楽ですね」


小さくそう呟くと、手を伸ばして、麻糸にそっと触れた。

張力と振動、風圧。そこにあるすべてが“風の調律”だった。


「この部屋は、うたっている。音階じゃなく、気配で」


司郎はその様子を見て、黙って頷いた。


 


***


 


礼拝堂の片隅には、来訪者たちが持ち寄った“余白”が集められていた。

古びたハンカチ、名もなき手紙、紐だけの十字架、折れた鉛筆。

それらが、糸とともにそっと風に縫い留められた。


「忘れたくないものじゃなくて、“忘れきれなかったもの”を置いてもらったの」


と、あやのは説明した。

誰かが、それを聞いたような気配がしたが、誰も返事をしなかった。


それでよかった。

返事のない空間こそ、風が棲む場所だから。


 


***


 


日が傾くころ、修道院の屋上に上がった。

モンマルトルの丘の上から、パリが遠くに広がっていた。


「……完成した気は、まだしないね」


あやのの言葉に、司郎は肩をすくめた。


「完成なんかしなくていい。これからも“風”が勝手に改築していくわよ」


「風が建築を直すって、すごい理屈だなあ」


「風ってね、設計図を読まないくせに、必ず“良い方”へ向かうのよ」


その言葉に、あやのは小さく笑った。

風が、二人の間を通っていった。静かで、少し甘い風だった。


 


***


 


その夜、礼拝堂の床下に、誰かが一枚の紙片を残していった。


それには、こう書かれていた。


Je n’ai pas de mots. Mais j’ai entendu.

(私は言葉を持たない。でも、聴こえた)


誰のものか、最後までわからなかった。


でも、きっと、それでよかった。

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