第五十五章 風の縫い目
小さな鈴の音がした。
風が、張られた麻糸の隙間をすり抜けたときにだけ鳴る、微かな音。
「……ねえ、これって、祈りになるのかな?」
中庭の一角で、あやのが修道女にそう尋ねた。
風の譜面は少しずつ密度を増している。一本ずつ、麻糸が風の経路を記憶していく。
「わたしたちの祈りは、言葉にしないぶん、風に似ています」
若い修道女はそう言って、目を伏せた。
あやのは、糸を指で弾いて、震える音を聴く。
「じゃあ、もしかして、“お経”や“グレゴリオ聖歌”より、風のほうが祈りに近いのかも」
その言葉に、修道女は小さく笑った。
「そうかもしれません。音にならない音が、いちばん届く気がします」
***
礼拝堂では、司郎が足場の寸法を測っていた。
礼拝堂を“沈黙の構造”に変えるには、残響と風圧のバランスを整える必要がある。
「……空気が震えるとき、人間は“神がいる”と錯覚するのよ。建築が“神聖”って言われる正体は、それ」
「錯覚でもいいんですか?」
あやのの問いに、司郎は頷いた。
「ええ。むしろ錯覚がいいのよ。現実と錯覚の境目に、いちばん深い呼吸があるんだから」
手元の図面には、風が「滞留する場所」が点で記されていた。
・西窓下の踊り場
・中央回廊の曲がり角
・屋根裏に抜ける螺旋階段の吹き抜け
司郎は、風が迷う場所をわざと設けた。
「風が迷えば、人も立ち止まる」――それが彼の設計理念だった。
***
夕暮れどき、あやのは回廊の一角に小さな台を置いた。
そこには、絹の残糸と古いレース、銀糸でかがったボタン。
「祈りじゃなくてもいい。“名付けられない感情”の居場所がほしい」
そう言って、風の流れのなかにその布片を編み込んでいく。
糸は、空気の抵抗に合わせてわずかに緩み、たわみながらも形を保った。
それはまるで、誰かの記憶を風で縫い留めていく作業のようだった。
***
夜。修道院の厨房に集まった数人の修道女たちが、あやのに尋ねた。
「どうして、そんなに風のことがわかるんですか?」
あやのは少し考えてから、答えた。
「……わからないんです。風のことなんて、全然。でも、ずっと誰かを探してる気がしてて。風も私も」
「誰か?」
「――名前も、顔も知らない。でも、“そこにいた”っていう気配だけが残ってる」
誰も何も言わなかった。
だけど、それで十分だった。
沈黙のなかに、また風が鳴った。
あやのが張った糸のひとつが、夜の気流に共鳴して、ほのかに震えた。
***
その週の終わり。司郎は回廊に小さな実験装置を設置した。
半音階に調律された金属の線が風の流れに沿って並び、糸と交差している。
「“風の縫い目”に“音のほつれ”を混ぜてやるの。綺麗に縫いすぎたら、風は通らなくなるから」
「……建物に“綻び”をつくるんですね」
「そう。“完成”なんてしない方がいい。風も祈りも、余白で生きてるのよ」
あやのは、その言葉を受けとめて、少し笑った。
この丘の上に、少しずつ――
“風を縫い留める建築”が、形を帯びていく。
それは、名前のない祈りのような、
あるいは、遠い誰かへの静かな手紙のような、建物の始まりだった。




