第五十四章 風の器
「ここからが、本当の設計よ」
司郎が背後から声をかけてきた。
今日も黒縁眼鏡に作業用つなぎ。肩に工具バッグ、腰に三角スケール。現場仕様の“戦闘服”である。
「昨日のパフォーマンスは、最高だったわよ。けどね――感動で図面は引けないの」
「……知ってる」
あやのは振り向きもせず、まだ眠る修道院跡をじっと見ていた。
石の壁、崩れたアーチ、風が抜ける空白――そこに、新たな“骨”を組み込む未来を、想像している。
「骨組みはどうする? スチール? 石? 木?」
「あの鐘を鳴らした風――あれが響けるなら、なんでも使う。でも……音が骨になるような素材を探したいの」
司郎が鼻で笑う。
「フッ、また無茶言って。なら、探すわよ。“風の骨”になる素材。吉田に当たって、あたしは旧市街の職人回る」
「ありがとう、司郎さん」
「いいのよ、あたしは裏方。あんたが歌ってくれればそれで」
そこへ、吉田が重い設計カートを引きずって登場した。
Tシャツ姿にジャケット羽織って、寝ぐせを撫でつけながらボヤく。
「ったく、パリまで来てオール明け図面かよ……あ、あやの。昨日のアレ、録音してる。今朝、3D音響に起こしてみた」
「どうだった?」
「やばかった。音響だけで空間が動いてた。反響が波のように流れて、“構造”として聴こえた。……設計図より、先に音が建ってる」
「……ふふ、それが“風の骨”かも」
「なにそれ、詩人みたいなこと言いやがって……!」
ヘイリーがドームの奥から登場する。手には長い布と、設計用のミニチュア模型。
「おはよう、みんな。ねえ、あたし、昨夜からずっと考えてた。“空白”って、ほんとは空じゃないのよ。満ちてるのよ、音で」
彼女が広げた模型には、吹き抜ける風の流線が、半透明の板と有機的な曲線で表現されていた。
「これ……風の経路を“膜”で受け止めて、音の残響を柔らかくする構造にしてみたの。**聖堂じゃなくて、“風の楽器”**に近いわ」
吉田がそれに見入って、小さく呟いた。
「……これ、建つな。ちゃんと歌えば」
あやのが静かに立ち上がる。
「じゃあ、歌うね」
彼女は、床に落ちた古いレンガを拾い、両手でそっと包むように持つ。
「石がね、こう言ったの。“また歌って”って」
その瞬間、空間がわずかに震えた。
風が、また音になった。
“未完成の聖堂”は、今まさに、風の中で骨を得ようとしていた。
それは図面でもスケッチでもない。音と感覚が、空間に「宿る」瞬間であった。




