第五十三章 聖堂の内側(インナーボイス)
風の聖堂――サント・ヴァンの建築現場は、日増しに奇妙な静けさと熱気に包まれていった。
仮設ドームの中、あやのは朝の祈りのように、ひとつひとつの素材に手を触れていた。
「それ……話しかけてるの?」
ふと後ろから聞こえたのは、吉田透の声だった。珍しく柔らかい口調だった。
「話してるというか……聴いてるんです。どこに置かれたいか、どう組まれたいか、みんなそれぞれで」
「おまえ、マジで建材と対話してんのな……」
彼は呆れたように笑ったが、その目はどこか安堵していた。
設計図面にすべてを落とし込もうとしてきた己の手法が、もう通じない場所に立っていることを、吉田はすでに悟っていた。
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現場の地中からは、いくつもの骨材や古代石材が見つかり、建築素材に再利用することが決まった。
司郎はその中でも「石の声がうるさいやつ」を選び、あやのに渡す。
「こいつは……やかましいから、入口にでも据えて黙らせなさい」
「はい、黙らせます。黙ってても、しゃべってても可愛いですけど」
「そういうの、墓石屋に言ってあげて?」
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その日の午後――
サント・ヴァンの中心部となる「内陣の骨組み」に、最初の鉄骨が立ち上がった。
だがその瞬間、風が一気に変わった。
突風。
誰もが思わず身を伏せた瞬間、中心に立っていたあやのの髪がふわりと逆巻いた。
空間が、音もなく震えていた。
「……揺れてる? これ、構造じゃない……」
「風が歌ってる」
あやのがつぶやいた。
その場にいた誰もが、言葉を飲み込んだ。
実際に音はなかった。だが、何かが鳴っているとしか言いようのない共振が、空間全体に満ちていた。
「“風の音叉”だ……鉄骨が、音に共鳴してる」
吉田が息を呑んだ。
司郎は腕を組み、じっと中心を見据えていた。
「こりゃ……おもしろくなってきたわねぇ……この聖堂、完成したら、風が“演奏”するわよ?」
「つまり“中に入るたびに違う”ってこと?」
「そう。内側が、生きてるの。あたしら、呼吸する楽器を建ててんのよ」
そのとき。
ヘイリーが、そっと近づいてきた。
彼女の手には、短い旋律を書いた五線譜が握られていた。
「これ……試してみない? あやののハミングを、空間に響かせてみたいの」
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数時間後、仮設ドームの中で、静かなテストが行われた。
あやのはただ、小さく口ずさんだ。
それは、かつてニューヨークの街角で生まれた、あの“Silent Requiem”の冒頭の旋律だった。
――と。
骨組みの鉄がわずかに鳴った。
風が吹き抜け、旋律が複製されたように空間のあちこちで反響しはじめた。
ひとつ、またひとつと、異なる“音の居場所”が生まれていった。
まるで、誰かが内側から、返事をしているかのように。
「……この聖堂、“空洞”じゃないわ。内側に、何かが住んでる」
あやのの目が、ふっと遠くを見るように細まった。
「“声”の居場所を作る。あたしたちが今、やってることは、それよ」
誰の声?
そう問いかけようとした誰かの口が、音にならないまま閉じた。
なぜなら皆、それが「誰の声」なのか、本当はもう気づいていたからだ。
この場所に集められた、すべての想いと、祈りと、記憶。
そして、
この世界にまだ名もない者たちの、未来の声。
「この建物、完成しないわよね?」
ヘイリーがぽつりと呟いた。
「完成しないように、設計してます」
あやのが笑った。
「だって、変わり続けるんですもん。この“声”のために」
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風の聖堂は、音と風の中に、その“内側”を立ち上げ始めていた。
誰もまだ、その最終形を知らない。
ただ、風が鳴り、声がそこに宿っていることだけは、確かだった。




