第五十二章 風の骨組み
パリの朝は、青白い光とともにやって来る。
修道院跡に隣接する仮設ドームの中、まだ誰もいないはずの空間に、あやのの小さな足音が響いた。
昨日のプレゼンテーションは、建築界の歴史を静かに塗り替える瞬間だった。
完成しない聖堂――その言葉は、欧州の硬直した設計思想に風穴をあけ、
記者たちは「未完成という完成」や「聴覚建築の革命」などの見出しをこぞって掲げ始めた。
だが。
「ここからが、本当の設計よ」
司郎が背後から声をかけてきた。
今日も黒縁眼鏡に作業用つなぎ。あやのの隣に立って、ドームの中心を見据える。
「見せ場は終わった。あとは、血と汗とホコリの舞台裏。さあ地味にいきましょ、地味に」
「地味なの、嫌いじゃないです」
あやのが笑うと、司郎は手に持っていた巻き尺をくるりと投げて受け取り直した。
「“風”に構造を与える。これがあたしらの役目よ。お花畑だけじゃ建物は立たないの」
その言葉に、梶原がうなずきながらやって来た。
「資材の手配、もう始めてる。問題は風荷重にどう対応するかだ」
「問題じゃない。挑戦よ」
司郎がにやりと笑い、梶原は無言で頷いた。
そこへ吉田が到着した。珍しく、少し寝ぐせをつけたままだ。
「音響データ、昨日のドーム内で拾った分を解析した。予想通り、“旋律反響層”が出来てた」
「旋律反響層……?」
あやのが首をかしげると、吉田は手元のタブレットを見せた。
ドーム内の音響が、歌に反応して変化していたのだ。単なるエコーではない、“共鳴面”が生まれていた。
「つまり、“構造”が、歌に合わせて形を変えようとしてる。生きてる建築になるかもしれない」
「それ、怖いこと言ってるって自覚ある?」
司郎がため息をつきながらも、その目はすでに燃えていた。
「よーし、やったるわよ。人類初、“音の骨格”を持つ建築。風の聖堂――あんたたち、ここからが地獄よ?」
「地獄はもう慣れてます」
あやのはそう言って、ひとつ深呼吸した。
その胸の奥で、“風”が静かに渦を巻いた。
数日後、修道院跡の現場――
工事が始まり、土が掘り起こされるたびに、古代の瓦礫や石像の欠片が現れた。
あやのはそれらを一つずつ手に取り、語りかけるように扱った。
古い石は黙っているように見えて、時に風と共に「思い出」を語ることがある。
「ああ……これ、“ひざまづく聖母”だ。壊れたけど、表情はまだ残ってる」
その声に、傍らのヘイリーが頷く。
「彫刻家を呼ぶわ。修復できるかもしれない。……あやの、この場所、本当に何かが“いる”のね」
「ええ。風と石が、ちゃんと話してる。静かだけど、確かに」
そしてその夜――
ドームに、ひとりの訪問者が現れた。
シャルル・マレンスだった。
闇の中であやのに近づき、静かにこう言った。
「理解はしない……だが、否定はしないことにした。私は、ここで“崩れる音”を聴いてしまったからだ」
「それでも、良かったんですか?」
「……建築は、老いも腐敗もすべて飲み込む。君の“未完成”が、私の“完成”を壊した。悪くない感覚だった」
そう言って、マレンスは一礼し、再び闇の中に消えていった。
そして――
新たな朝が、風の中にやって来た。




