第五十一章 声なき設計図
修道院跡の敷地に、仮設のガラスドームが建てられていた。
そこが今日のプレゼンテーション会場。招かれたのは世界中から集まった設計士と音響技師、そして保守派を率いるマレンス。
あやのは白いワンピース姿。靴音ひとつ立てずに、静かにドームへ入った。
空は曇り。だが風はよく通る。
あやのは手に何も持たず、ただ中央に立ち、マイクも使わずに口を開いた。
「――今日は、設計図を持ってきていません」
ざわめく会場。
吉田が「来たな」と呟き、司郎はポケットの中で拳を握っていた。
「この土地が、まだどんな“音”を欲しているのか……私は、今日初めて“聴く”つもりで来ました」
そう言って、あやのは一歩、風の道筋を辿るように進む。
静かに、目を閉じ、耳ではなく胸の奥で、空間を“感じて”いた。
「石が冷たいね、と風が言った。
壁が眠ってる、と土が囁いた。
じゃあ……いま、起こしてみようか」
そのときだった。
あやのの歌が、風の音と重なった。
最初はほとんど聴き取れないほどのハミング。
だが次第に、その旋律が風に乗ってドームを包み込み、
まるで目に見えない設計図が、空間に**“描かれていく”**ようだった。
観客たちは黙った。
マレンスでさえ、口をつぐんでいた。
歌が終わると、誰もが何かに触れたような顔をしていた。
だが、あやのは最後にひと言、言葉を添えた。
「――ここには、“完成しない聖堂”を建てたい。
風が、歌が、誰かの痛みや祈りを抱き続けられるように」
静寂。
それを最初に破ったのは、グレイマンだった。
後方から拍手が響いた。
それは徐々に広がり、全会場を包むような喝采になった。
マレンスはただひとこと、「理解はしない」と言い残して立ち去った。
けれど、それでも――
この瞬間、世界は動いた。
夜。仮設ドームの裏のテラス。
あやのはひとり風にあたりながら、静かに座っていた。
そこに、後ろから梶原が現れる。手には紙コップ。
「……飲むか。甘いの。さっきヘイリーが、混ぜてくれた」
「うん、ありがとう」
受け取って、口にする。
その甘さに、ふっと笑みがこぼれる。
「ねえ、梶くん。わたし、歌ってるとき、何か変だった?」
「……いや。変だったのはおれのほうだ」
「え?」
梶原は、手すりに肘をつきながら、小さく言った。
「なんかさ、おまえが歌ってると、胸がきゅーってなるんだよ。
最初は違和感だったけど……今はもう、違和感がないと落ち着かねぇっていうか」
「……ふふ」
あやのはカップを両手で持って、あたたかさを指に感じながら、言った。
「それって、好きってことじゃないの?」
「……わかんねぇ。たぶん、そうなんだろうけど」
「じゃあ、わたしが好きになったら、どうする?」
梶原が少し黙ってから、真っ直ぐに言った。
「……守る」
「え?」
「建築と同じ。最初に向き合ったもんは、最後まで面倒見る。
おまえがどこに行こうが、何に歌おうが、そう決めてる」
あやのは、風に揺れる前髪の奥で、ゆっくり目を閉じた。
「……じゃあ、もう逃げないよ。わたしも」
それを陰で見ていた司郎と吉田。
屋上の影からこっそり覗いていたふたりは、まるでドラマを見終えた観客のように顔を見合わせた。
「くぅ~! 若いって、素晴らしいッ!」
「司郎、声でかい……!」
「キスしないのがフランス式の礼儀って思ってんのかしら。もうバシッといきなさいよ! バシッと!」
そんなふたりに気づいたヘイリーが、あきれた顔でやってきて言う。
「あんたたち……陰から覗いて、何してるのよ」
司郎は腕を組んでキメ顔で言った。
「恋の構造検討会よ! 正統派よ!」
ヘイリーはため息をついて、笑った。
「全員、馬鹿だわ」
あやのは、それを聞いて笑いながら、そっと梶原の腕に触れた。
「家に帰ろう?」
それは、ふたりがようやく手を取り合って歩き出す、小さな第一歩だった。




