第五十章 風を編む者
パリ・モンマルトル。丘の上の古い修道院跡に立ち尽くし、あやのは風に揺れるスカーフを手で押さえた。
ここが、次の設計地――
**「音を聴く建築」第二章、舞台は“空白の修道院”**と呼ばれるこの場所だった。
「なあ、吉田。音と建築が交わるとか、そういうセンチな話、こっちの老害共には通じんぞ」
「わかってる。だから逆に、ぶち壊す。論より実装だ」
吉田の銀縁メガネが太陽を反射して光る。
隣でヘイリーが腕を組み、パリ訛りのフランス語でスタッフと会話を進めていた。
「でもね、敵は多いわよ。とくに“ゼロ音派”の奴ら」
「“建築に音はいらない”なんて、よく言えたもんだな。五感を否定してどうやって空間を作るんだか」
ヘイリーの瞳が鋭くなった。
“ゼロ音派”。ヨーロッパの保守的な建築家グループで、「音が空間を乱す」という理論を提唱していた。
「けど私たちには――風の声がある」
あやのは、小さく口ずさむように言った。
梶原はその言葉に反応して、思わず手を伸ばしそうになるのを堪える。
彼女は、いまひとりで歩き始めている。その背中は、もう泣かなくなった少女ではなかった。
「……おまえは、もう大丈夫だな」
その呟きに、吉田がにやりとする。
「惚れたか?」
「……んだと」
「あーあ、そろそろ告白でもしたらどうよ。建築より複雑な人間関係が、現場の一番の弱点なんだからさ」
吉田がニヤついたまま言い、そこにまるで待ってましたとばかりに――
「はい、ストップストップ! なにその男子高みたいな会話! こっちは戦場よ!」
と、司郎がわざわざ高らかに割って入ってきた。
黒縁眼鏡の奥の目がキラリと光っている。
「梶原ぉ、告白するならフランス語でやりなさい。“Je t’aime”よ、“Je t’aime”♡」
「うるせえ」
「で、吉田ァ、おまえはいつまでツンデレ引きずってんのよ。ツン9割は犯罪よ? 逮捕よ?」
「……やっぱこの人と組むの間違ってるかもしれん」
司郎がさらにヒートアップしそうになったそのとき――
風が静かに吹いた。
その風の中で、あやのがそっと歌い出す。
最初は囁きのように。けれど、石畳に触れた音が振動し、
修道院の崩れた壁にこだまし、風の中に“なにか”が立ち上る。
建築が、歌に反応した。
あやのの足元の砂利が微かに舞い、
修道院の鐘が――誰も触れていないのに――小さく“コォン”と鳴った。
ヘイリーが驚き、吉田が言葉を失い、
梶原は、ただじっと彼女を見つめていた。
「……これが、君の声が“建つ”ってことか」
司郎が低く言った。
「始まるわね、“風の聖堂計画”」
ヘイリーが呟いた。
そこへ――
記者会見にやって来た建築界の大物たちが次々と降り立ち、
その中には、「ゼロ音派」の重鎮、シャルル・マレンスの姿もあった。
鋭い目。音を拒絶する理論の申し子。
その男が、あやのに向けて言い放つ。
「幻想で建築は造れない。音楽は、建築を腐らせる」
あやのは、まっすぐ見返した。
「そうですか。でも、わたしは腐る音も好きです。
朽ちることも、空間の一部じゃないですか?」
一瞬の沈黙。
だが、場の空気はあやのの一言に飲み込まれていた。
司郎がにやりと笑う。
「ほらね。もうあたしらが前に出る必要なんてない。主役は決まってんのよ」
梶原は隣に立ち、静かに言った。
「……おれは、おまえの足場を作る。それだけだ」
吉田も続けた。
「歌わせてやるよ、世界をな」
音と空間。風と石。感情と構造。
そのすべてが交差する、新しい“戦場”が、今、幕を開けた。




