第四十九章 女たちの天然無双
パリの朝靄が晴れた頃。
あやのとヘイリーは、パン屋の袋を抱えて笑いながら出る拠点に戻ってきた。
「ねえ見て、ここのバゲット、ちょっとハート型っぽくない?」
「ほんとだ。……もしかして、恋の味?」
そんな他愛ないやりとりを交わしながら扉を開けると――
中では、司郎がご機嫌な鼻歌を歌いながらキッチンを仕切り、
吉田は壁の設計図に視線を泳がせ、
梶原はなぜか包丁を手に無言でパプリカを切っていた。
三人とも、明らかに挙動不審。
一瞬、時間が止まる。
あやのは、入り口で立ち止まったまま、ぱちくりと瞬きし――
ふわりと微笑んだ。
「……なにか、楽しい秘密でもあったの?」
その声はまるで春風のようだったが、どこか底知れない。
梶原はパプリカの芯を吹っ飛ばし、
吉田はうっかりペンを落とし、
司郎だけが「ヒィッ」と奇声を上げてフライパンを落としかけた。
「ちょ、ちょっと何よその女のカン……怖すぎ……!」
ヘイリーはあやのの横で大笑い。
「オーケイ、わかった。絶対なんかあった! 男たちの顔、全員“バレてないと思ってる小学生”の顔してるわ!」
「わたし、何も聞いてないのに、なぜか罪悪感を感じるのはどうしてだろう」
あやのは首を傾げ、微笑んだ。
梶原は目をそらし、
吉田は何事もなかったかのように図面に向き直り、
司郎はエプロンで顔を隠しながら呟いた。
「……あやのの前では、男どもは黙るのが一番よねぇ……」
ヘイリーがパン袋をテーブルに置き、にやり。
「さあシェフたち、今朝は“恋の味”の朝食でお願いするわね」
あやのはパンを手にしながら、くすっと笑った。
そして、いつものように自然な声で――
「じゃあ、歌でも添えましょうか?」
あやのがそう口にした瞬間。
梶原の背筋がピンと伸び、吉田が椅子ごと微妙に距離を取るようにズレ、司郎は手を止めて、明後日の方向を見た。
ヘイリーが、あやのの横でニヤニヤしながら囁いた。
「ねぇ、気づいてる? 今あんたのひとこと、男たちの鼓動止めたよ?」
「え、なにか変だった?」
あやのは目を丸くして、パンをちぎりながらキョトンとしている。
「なーにが変だよって……この空気だよ、この空気!!」
ヘイリーは一歩前へ出ると、ひとりずつ指をさした。
「梶原、顔が真っ赤。たぶん脳内で今“昨夜のセリフ”再生されてるでしょ?」
「……な、なにも言ってねえし」
「吉田、顔に“動揺してないぞ”って書いてある時点でもうアウト」
「お前の観察力が気味悪いんだよ」
「そして……」
くるりとターンして、司郎に向き直る。
「そこの料理長。あんただけ異様にテンション高いのは、たぶん“この茶番を見てるのが楽しくてしかたない顔”よね?」
「いや〜ん♡バレた〜〜〜!」
司郎は笑いながらお玉でリズムを取り、ヘイリーとハイタッチした。
あやのは、そんなやりとりを眺めながら、ふとポツリと言った。
「……でも。変なの。なんでだろう」
「ん?」
「だってみんな、何も言ってないのに――なにか、優しいことを隠してる顔してる」
その瞬間、部屋の空気がふっと静まった。
ヘイリーが、「……ハッ」と息を呑んで、あやのを見た。
「……そういうとこよ、あんたがヤバいのは」
「えっ、なにが?」
「知らんけど、心のストリップショーされてる気になるのよ。みんな、裸にされてんの」
あやのはパンのかけらをくわえながら、何か考えるように目を細めた。
「……そうだったら、ごめんなさい」
「いや、ありがとよ……」
司郎が、ぽつりと呟いた。
梶原は、あやののほうをちらと見てから、小さく息をついて言った。
「おまえは……変わったよな。ちゃんと戻ってきた」
あやのは何も言わなかったが、彼の声を、たしかに聞いていた。
その目は――ほんの少し、潤んでいた。
ヘイリーが空気を戻すように、手を打つ。
「よし、じゃあそろそろ私らの仕事も再始動よ! 吉田、あんた新案件の資料まとめてたでしょ!」
「……ああ。いい加減始めないとな、音楽建築第二章」
「うまくいけば、ヨーロッパを歌わせる建築になるわ」
吉田の目が鋭く光った。
「それは、“あの声”が、再び響くならの話だがな」
あやのは、微笑んで言った。
「歌うよ。どこでも、誰のためでもない歌を。――わたしのために」
誰かのために歌っていた少女が、
自分の意志で響かせる声へと――その歩みを、確かに始めていた。




