第四十八章 男の秘密は壁に耳あり
パリの黄昏時、出る拠点の裏庭。コーヒー片手に、吉田と梶原が並んで腰を下ろしていた。
静かな時間。だが、どこか火種を抱えたような空気。
「おまえさ、本当はあやののこと、気になってんだろ」
梶原がふいに、肩を寄せるでもなく、風に向かってぼそりと呟いた。
吉田はコーヒーに口をつけながら、微かに眉を上げる。
「気になるって、そっち方面じゃない。才能として、だ」
「ふーん?」
梶原の声は、からかうようでいて、目は鋭い。
「おまえの“才能として”ってやつは、なんか妙に湿度高いんだよな。やけに見つめてるし」
吉田は乾いた笑いを漏らした。
「おまえこそ、あいつが声出さなくなったとき、ずっとキッチンで皿洗いしてただろ。何かあるのかって思ったよ」
「それは…皿が多かっただけだ」
梶原はちょっと目をそらす。
「つか、あいつ放っとくと飯食わねぇし。無理してるって顔すんだよ。見てらんねぇだろ、普通」
吉田は目を細めて、珍しく素直に頷いた。
「確かに。あいつの“だいじょうぶ”ほど、信用ならない言葉もない」
「だろ? でもな、あやのは自分で立ち上がった。歌も取り戻してる」
梶原はコーヒーを飲み干し、空を見上げた。
「だからもう、あんまり手を出すのも違う気がしてな。あいつは、誰の所有物じゃない」
吉田も静かに同意するように言った。
「それでも、支えたいと思うことはある。それって、悪いことじゃないだろ」
梶原がふっと笑った。
「…まあ、でもあれだな。あの声、毎晩聴ける相手がいるなら、人生だいぶ勝ちだと思うぞ?」
吉田は鼻で笑って、肩をすくめた。
「そう簡単に手に入ると思うなよ。おまえにはハードル高すぎる」
「おまえにだけは言われたくねぇよ」
梶原が軽く肘で吉田を小突いた。
二人の笑い声が、夕焼けの石壁に溶けていく。
だがその奥にあるのは――互いに譲れない、熱と想い。
静かな戦火は、すでに灯っていた。
翌朝。
キッチンの大テーブルには、焼きたてのクロワッサンとカフェオレの香りが漂っていた。
司郎はエプロン姿で、手際よくベーコンを焼きながら、ふたりに向かってニヤリと笑った。
「で? おふたりさん、昨晩はずいぶん甘酸っぱい夜を過ごしたのねぇ?」
梶原「……は?」
吉田「……何の話だ」
司郎はフライパンを振りながら、得意げに言う。
「聞こえてたわよ〜裏庭での“おとこの約束”。あれでしょ、“あやのは誰のものでもないけど、毎晩あの声が聴けたら勝ち”ってやつ〜!」
梶原がコーヒーを盛大に噴き出した。
「な、なんでそれを……!」
「この建物、声が通るの。あたし設計者だから分かるけどね? ちょうど換気口が音を反響させて、キッチンにばっちり届くのよ」
司郎は得意満面だ。
吉田は顔を手で覆い、珍しく動揺していた。
「……設計ミスだろ、それ」
「言ったわね? あんた今、“あたしの設計”をミス扱いしたわね?」
司郎がじろりと睨むと、吉田は即座に姿勢を正す。
「設計じゃなくて、えーと、音響的に、極めて精緻な…共鳴構造だ」
「よろしい」
一方、梶原は耳まで赤くしながらぼそり。
「べつに、そんなに変なこと言ってねぇだろ。心配してただけで――」
「はいはい、“あやのが無理してる顔すんのが見てらんねぇ”ってやつね♡」
司郎はトングでベーコンをひょいと皿に移しながら、声真似までしてきた。
「“そっと支えてぇ”とか、“見てるだけでいい”とか、“でも俺が傍にいてぇ”とか、もう昭和のラブソングかっての!」
「うるせえな……!!」
梶原は顔を手で覆い、反撃もできず沈黙した。
吉田がぼそっと呟いた。
「……この事務所、油断ならないな」
「ま・だ・ま・だ! 恋の建築現場は始まったばかりよ〜!」
司郎は高らかに笑い、エプロンのポケットからなぜか花柄のミトンを取り出した。
「さ、今日もがんばっていきましょ♪ あやののためにね♡」
ふたりは、揃ってぐったり肩を落とした。




