第十四章 声が棲む場所
改装が終わった「出るビル」は、昼間の光の中で静かに呼吸していた。
風が通り抜けるたびに、古い建材と新しい木の香りが混ざり合い、なにか不思議な“あたたかさ”が建物全体を包んでいる。
かつて「幽霊が出る」と言われていたビルは、もう“出る”どころか、住み着いていた霊たちすらも出ていかずに、気持ちよさそうにそこに佇んでいた。
【全体構成】
1階:事務所兼応接スペース、キッチン、共有ダイニング
2階:司郎の部屋、打合せ室、トイレ(太郎くん棲息)
3階:あやのの部屋、ライブラリ(元・会議室)、ユニットバス
4階:梶原の部屋、作業スペース、機材・資材の倉庫
屋上:ガラス張りのパレス古びたピアノが置かれている
階段室の踊り場には、田中さんが昼寝をしている。
エレベーターは相変わらず動かないが、司郎・あやの・梶原の三人だけは、なぜか“普通に”使えている。
【司郎正臣の部屋|2階奥】
そこは「理知の巣」だった。
本棚、図面、ホワイトボード。
机の上には常に何かしらのプロトタイプ。スケッチブックが積み重なり、筆記具は職人の道具のように手入れされて並べられている。
部屋の奥には使い古された革のソファと、レコードプレーヤー。
モーツァルトやジョン・ケージの音が交互に流れるが、司郎はそれをBGMとして意識すらしていない。
「機能以外はすべて捨てる」――司郎の信条どおり、装飾らしいものは一切ない。
だが、なぜか“美しい空間”に感じられるのは、そこに司郎自身の合理と偏愛がしっかり刻まれているからだ。
あやのはその部屋にあまり長居しない。
空間の密度が高すぎて、息をする場所がないのだ。
【真木あやのの部屋|3階角部屋】
そこは“耳”でつくられた部屋だった。
床には真珠色のラグ。壁の内側には見えない吸音材が仕込まれており、静けさが空気に溶け込んでいる。
開け放たれた窓からは、風の音と遠くの電車の響きが、まるで子守唄のように流れ込んでくる。
部屋の中心には、小ぶりの木製ベッドが置かれていた。
白木のフレームに、生成りのリネン。
あやのが自分で選んだ、ふわりとした掛け布団と、刺繍の入った枕カバー。
それはまるで、繭のように柔らかな空間だった。
ベッドの脇には、手のひらサイズのオルゴールや、小さな鳥の羽を挟んだガラスの標本箱。
夜、あやのはそれらの音や気配を確かめながら、まぶたを閉じる。
壁には小さなハープと、カリンバ、そして風に揺れるモビール。
音のなるものが、静けさのなかにそっと並んでいた。
天井からは一つだけ異質なもの――銀色の鈴のようなものが吊るされている。
遠野で梶原が無言で渡してきた、謎めいた“道具”だ。
いまだその鈴の音をあやのは聞いたことがないが、それは彼女にとって大切な“何かを待つ音”でもある。
部屋の一角には製図台があり、最近はそこに音符のような建築模型がいくつも並びはじめていた。
これは、ただの少女の部屋ではない。
音と光と記憶――それらが折り重なって静かに呼吸している、“まだ名のない創造”の部屋だった
【梶原國護の部屋|4階西端】
梶原の部屋は“無口な山小屋”のようだった。
土壁風の漆喰。太い梁を残したまま剥き出しの天井。
床は自分で削った板張りで、歩くたびにミシミシと心地よい音が鳴る。
角には小さな囲炉裏があり、鍋や鉄瓶が吊られていた。
梶原は火が好きだ。静かに燃えているものを見ると落ち着くらしく、冬場には炭火でご飯を炊いていた。
工具箱、作業服、ヘルメット。
きちんと並べられたそれらは、まるで兵士の持ち物のように無駄がなかった。
ただ一つ、目を引くものがある。
あやのがかつて遠野で描いた「木々のスケッチ」。
それが大きく引き伸ばされ、部屋の一角に飾られていた。
梶原は人の言葉をあまり覚えない。
でも、“誰かの手のぬくもり”は、忘れない。
【出るビル全体の空気】
昼は柔らかく光が入り、夜は照明が最小限に抑えられる。
幽霊たちはその変化に呼吸を合わせて、まるで“棲むこと”を楽しんでいるようだ。
キッチンには誰かが作った煮物や焼き菓子が常に置かれていて、来客は食べていいというルールになっている。
トイレの太郎くんは、毎日違う香りの芳香剤を嬉しそうに試している。
エレベーターの山形さんは、突然現れては「うぉぉぉぉ……」と唸るが、
最近ではあやのの作ったプリンを密かに楽しみにしているらしく、悪さは控えめだ。
この“おかしな建物”は、
街の中にそっと潜む「違和感のような魅力」として、じわじわと人を引き寄せ始めていた。