第四十四章 響きの再生(ルネサンス・ノート)
パリの秋は、静かに深まっていた。
テラスに散る落ち葉。日暮れの光に染まる石畳。
一見すると穏やかな時間の流れの中で、あやのの心はどこか遠くを漂っていた。
――音が、鳴らない。
あれほど自然に、心の内からこぼれ落ちていたハミングも、
今は喉の奥で止まり、ただの沈黙となっていた。
心が無音に沈む日々。
何かが壊れたわけではない。ただ、色が失われたようだった。
そんなある日、出る拠点の扉が、
ゆっくりとノックされた。
開けたのは司郎。杖を手に、眉をしかめていた。
「……この空気、あんたでしょ。どうせまた、あやのに変な音を吹き込む気なんじゃないの?」
「変な音とは失礼だな、親愛なる建築家。
私の音は、いつだって魂の奥から生まれるんだ」
柔らかな灰色のロングコートに、シルクのスカーフ。
月光を編んだような髪と、遠い記憶を思わせる眼差し。
マエストロ・グレイマンが、ふたたび現れた。
あやのは、その姿を見るなり、はっと息を呑んだ。
だが、すぐには言葉を発さなかった。
グレイマンもまた、無理に名を呼ぶことはせず、ただ微笑む。
「そろそろ、耳を澄ませてもいいころじゃないか?
あの夜、君の中に芽生えた沈黙――
あれは、音楽の終わりじゃなくて、始まりだったはずだよ」
グレイマンは日を追うごとに、あやのの中の「音の感覚」を呼び戻すように語りかけた。
言葉ではない対話。
風のささやき、石畳を叩く雨音、遠くの教会の鐘の音。
「耳で聴くな。魂で聴け。
言葉にならない感情は、音として外に逃がしてやるんだ」
彼の奏でるピアノは、ただの旋律ではなかった。
音が音である前に、感情であり、傷跡であり、祈りだった。
あやのは、ある日ふと、涙を流していた。
理由はわからなかった。
けれど、心のどこかがほどけていくような、
温かい痛みだった。
夜。誰もいない拠点の屋上で、あやのはひとり口を開いた。
静かに、ゆっくりと。
まるで、もうひとつの心臓が鼓動を始めるかのように。
風に溶けるような声だった。
それは言葉ではない。けれど、確かに、詩だった。
「眠れぬ者よ、いまこの灯に寄り添え
ひとときの安らぎを わたしが宿す
かすかな旋律が 終わりゆく夜を編むまで」
グレイマンは、それを聴いてそっと頷いた。
「それがレクイエムの始まりだ。
君の声が死者を慰める日が来る。いや、きっとそれだけじゃない」
彼は遠くを見た。
「君の歌は、来たる世界でも生きる。
かつて失われた音楽が、君の中で蘇るだろう」
そして――
あやののハミングが、世界で再び響き始めた。
その旋律はもはや単なる「歌」ではなく、
建築、空間、空気、感情を巻き込みながら、
人の心にじわじわと染み込んでいく。
ひとつの命が、沈黙から歌へと変わった瞬間だった。




