第四十三章 静かなる余白(サイレント・ホープ)
ザーヒルによる誘拐事件は、あっという間に国際問題へと拡大した。
中東某国の王族の一員であるという彼の行為は、“個人の暴走” として切り離され、
現地政府は表向きに強い抗議と謝罪の声明を出した。
背後では複数の国が水面下で動き、事件を大規模な外交的トラブルにしないための駆け引きが行われていた。
司郎デザインの法務顧問が即座に動き、あやのの身柄の安全保障は国際的に裏付けられることとなった。
事件は数日間、全世界のニュースヘッドラインを飾った。
「フェアリー・デザイナー、禁断の宮殿からの脱出劇」
「静かなる少女、巨大権力への抵抗」
「建築と音楽の奇跡――真木あやの、再び自由の地へ」
SNSではハッシュタグが飛び交い、彼女を「現代の眠れる森の美女」になぞらえるファンアートが溢れた。
多くの女性がその毅然とした拒絶と沈黙を「新しいヒロイン像」として讃え、
同時に過剰な消費や同情の目も少なくなかった。
けれど、あやのは沈黙を貫いた。
彼女の代わりに、司郎が一度だけ記者会見の場に立ち、
「彼女は傷ついてなどいない。ただ、あまりに疲れただけよ」と言い切った。
事件から数週間が経ち、パリの空気は冷たくなっていた。
ヨーロッパ拠点のテラスには秋風が流れ、薄く曇った夕暮れの空が広がっていた。
そのなかで、あやのと梶原はふたりきりで紅茶を淹れていた。
「……どうして、そんなに静かなんですか?」
あやのがぽつりと聞く。
梶原はしばらく無言で、カップにミルクを注いだ。
その手は相変わらず無骨で、ごつごつしていたが、注ぐ動作はとても優しかった。
「喋ると、おまえが傷つく気がしたんだ。……ただ、それだけだよ」
その声に、あやのはふと息を止めた。
そう――梶原は、事件のあとずっと言葉を選び続けていた。
どんなに心配でも、どれだけ何かを伝えたくても。
彼はただ、黙って側にいてくれた。
「あの夜、ほんとうに怖かったんです」
言葉にすることで、ようやく現実が確かになるようだった。
あやのは声を震わせずに言った。
「でも、来てくれたのが梶くんで、本当によかった。たぶん、誰よりも――梶くんなら、って思えたから」
梶原はその言葉に、何も言わずに視線を落とし、
それからそっと、彼女のカップに自分のカップをコツンと当てた。
「……これが俺の返事な。言葉じゃなくて、お前が笑う方が大事だと思ってる」
カップの音が、秋の空にかすかに響いた。
あやのは、紅茶の香りに包まれながら、そっと目を閉じた。
心の底に、小さな灯がともったようだった。
ふたりの距離は、まだ言葉にはならない。
けれど――確かに、「愛しさ」の輪郭が生まれ始めていた。




