第十三章 骨と声と、光のための場所
壁をはがすと、時間が剥がれた。
赤茶けたレンガの下に、過去の埃が降り積もっていた。
かつて何人もの人が出入りし、時代を見つめ、忘れられ、黙って耐えてきたこの四階建てのビルは、まるで朽ちた塔のようだった。
「なあ、これ、ほんとに使うのか?」
作業服姿の男たちが目を丸くする。
司郎は、黙って首を縦に振った。
「使うわよ。全部。こいつの骨が気に入ってるんだもの」
コンクリートの継ぎ目。鉄骨のゆがみ。
天井裏に眠っていた時代遅れのダクトや、手すりのない階段。
普通なら取り壊す部分を、司郎はすべて残すように言った。
むしろ、それがこの建物の「個性」なのだと。
「骨が美しい建築ってのはね、色も家具も要らないのよ。触れば、わかるわ」
司郎は手袋を外し、裸のレンガを撫でた。
その傍らで、あやのは黙って掃除をしていた。
埃を払い、窓を拭き、まだ開かないエレベーターの前に新しい観葉植物を置いた。
太郎くんがそこに座って、楽しそうに見ている。
田中さんは階段の踊り場で、誰にともなくうなずいている。
「静かですね」と、あやのは小さくつぶやいた。
幽霊たちが、安堵していた。
騒音のような“死の声”はもうなかった。
ここはもう、死者が囚われる場所ではなくなった。
数日後、玄関の鉄扉が取り外され、古い木枠のガラス扉がはめ込まれた。
玄関の上には、司郎の手描きによるプレート。
――司郎デザイン
その名前は、正規の登記にはまだ間に合っていなかったが、あやのが“出るビル”と呼ぶこの場所に、初めて「外の人を迎え入れる顔」が与えられた瞬間だった。
その日、遠く岩手から一台の軽トラがやってきた。
荷台に詰まった工具と、板材と、丸太。
運転席から降りてきたのは、無骨な青年だった。
厚手の作業着、ぶ厚い手袋、どこか懐かしい、山の気配。
梶原國護――
彼が再び、あやのの前に姿を現した。
あやのは驚かなかった。
彼が来ることを、どこかで知っていた。
「……梶くん」
そう呼びかけたあやのの声は、風に乗ってレンガの壁を撫でた。
その瞬間、トイレの太郎くんがぱたぱたと二人の間を駆け抜けていった。
「来たよ」
梶原は短く言って、うなずいた。
こうして、三人は“出るビル”を生き返らせる仕事に取り掛かった。
床が張り直され、配管が新たに這わされ、壁の断熱材がむき出しのまま並べられた。
それでも、この建物はすでに「誰かを迎える場所」としての温度を帯び始めていた。
コンクリートの匂い。
木材の湿気。
そして、声にならない誰かの笑い声。
「ここ、音がいいですね」
あやのがポツリと言った。
司郎はそれに頷きもせず、図面の上にペンを滑らせた。
「鳴る建築にしたいのよ。光と音と風が、ちゃんとここに入ってくるように」
梶原は何も言わない。
だが、図面を読む速度が速く、工具を持つ手が一分の狂いもなく正確だった。
――建築が“生き返る”とは、こういうことか。
一つひとつの作業が、音楽のように重なっていく。
金槌の音、ボルトを締める振動、梁がはめ込まれるときの低い“ドン”という響き。
それは、あやのにとって“最初の合奏”だったのかもしれない。
音楽という言葉が、まだ明確な形をとらないまま、
彼女の耳の奥で、生まれ始めていた。