第三十七章 檻の中の夜
部屋には窓がなかった。
壁に飾られたステンドグラスは、偽りの陽光を映すだけ。
香が焚かれた空気は微かに甘く、まるで現実感を奪うように、意識を鈍らせる。
真木あやのは、その中心に置かれた椅子に静かに座っていた。
深紅の絨毯、絹と金のドレス、足元には宝石がこぼれている。
誰もが欲しがるものたちが、まるで彼女を飾るために用意された“装飾品”のようだった。
それらは、彼の愛情のつもりだった。
夜になると、男が来る。
シーク・ザーヒル。
まだ若く、美しく、洗練された所作を持つ男だった。
だが、その瞳には冷たい執着の光が宿っていた。
あやのがどれだけ言葉を拒もうと、どれだけ視線を逸らそうと――
彼は毎夜、必ず現れ、宝石の箱を開き、ドレスを広げ、香を選ばせようとする。
「これはペルシャの刺繍。君の肌には、金糸が似合うと思って」
「このエメラルドは、かつて王妃の涙から生まれたものと呼ばれている。君にこそふさわしい」
あやのは、何も言わなかった。
手を出すことはなかったが、彼の視線は、指先よりも多くを触れていた。
まるで彫刻をなぞるように、あやのの呼吸や動きを“所有”しようとする。
「君はここで、美しく在ればいい。世界は、君を傷つけすぎた。もう何も考えず、音も出さず、ただここに在れば、それでいい」
あやのは、その言葉に、ふっと目を細めた。
「音も出さず」――それは、彼にとっての“完全な所有”だった。
一夜、シークは手を伸ばした。
あやのの頬に、そっと触れようとしたその瞬間。
――カラン。
足元の宝石が転がり、硬い音を立てて床を打つ。
小さなその音に、あやのの身体が緊張した。
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
「この宝石たち、泣いてますよ」
その言葉に、シークの指がわずかに止まる。
「あなたの愛は、砕く音がします。
それは私の知っている“音楽”とは違う」
力では敵わない。
ここには結界があり、星眼の力も封じられている。
そのことを、あやのは最初から理解していた。
だから彼女は、静かに、日々を観察していた。
ドアの開閉音、香の燃焼時間、侍女たちの足音、警備の配置……
――音のすべてを、記憶し、重ねていく。
それが、彼女にできる“譜読み”だった。
そして、その記譜は“逃走”ではなく、“解放”のためにある。
誰よりも自分を信じてくれる人たちが、外にいると知っているから。
(……司郎さん。梶くん。今は、まだです。
私は、音を奏でる時まで、沈黙を守ります)
あやのは目を閉じ、深く呼吸した。
宝石の山の中、囚われた小さな妖精は、静かに“音の武器”を鍛えていた。




