第三十六章 砂に沈む宝石
パリの早春は、風の冷たさのなかに甘い花の香りを含んでいた。
セーヌ川沿いのカフェで、あやのは窓辺の席に座り、遠くの鐘の音を聞いていた。
その手元には、何通もの招待状と依頼状――音楽家として、建築家として、そして何より“現象”としての真木あやのに向けられた、世界の呼び声が並んでいた。
その中に、ひときわ目を引く便箋があった。
金色の箔押し、アラビア書体の手書きの封蝋。
翻訳された内容には、こう書かれていた。
「我が国の芸術顧問として、至高の礼遇をもって迎えたい。
あなたは“生ける宝石”であり、我が王宮にこそふさわしい存在です」
差出人は――中東某国、ナイール王国の若きシーク。
豊富な石油資源と芸術への異常な執着で知られる男だった。
「完全に“モノ”扱いですね」と、ヨーロッパ支部の梶原が封書を読みながら唸る。
司郎は低く鼻を鳴らし、無造作にそれをゴミ箱に投げ入れた。
「どこの誰だか知らないけど、ウチの娘に手を出す気なら、地雷踏む覚悟で来なさいって話ね」
あやのは苦笑しながら、サロンのテーブルを片付けていた。
「危険人物らしいです。過去にも何人か、芸術家が……行方不明になってます」
「要するに“監禁趣味の収集家”ってやつか。生身の人間を所有しようとする人種は、芸術を口実にして魂を壊す」
司郎の声は、珍しく怒気を含んでいた。
その夜、SNSにアップされた過去のあやののハミング動画が再びバズを引き起こしていた。
「建築と音楽を繋ぐ妖精」「声に宿る祈り」――そんな見出しが世界を駆け巡る。
ヨーロッパの音楽大学からは名誉講座の打診、ローマの大聖堂からはコンサートの提案、さらには国連文化事業団からもアート・アンバサダーの候補として推薦された。
だが、影は静かに迫っていた。
ナイール王国からの使節団が、突如パリの空港に到着したという報が入る。
国際芸術財団を名乗るその一団は、表向きは交流視察と報道されていたが――
その中には、かつて同国に招かれたまま戻らなかった女性画家の名が記されていた記録が残っていた。
数日後、あやのは突然、行方不明になる。
その日、あやのは一人で楽器職人の工房へ向かっていた。
だが予定時間を過ぎても戻らず、連絡も取れなくなる。
司郎の表情が一瞬で変わった。
梶原はすでに支度を整え、あやのの残したGPS記録を解析していた。
「足がつかない移動手段を使われてます。車ではない、ヘリか……あるいは地下」
「やったわね」と司郎の目が細く光る。
「……命に代えても、取り戻す」
――あやのが連れていかれた先は、南仏の外れ、元修道院を改築した“迎賓館”だった。
異国の布、香と香辛料の満ちた空間、そして磨かれた大理石の床。
だがそこには明確な“監視”の視線と、“展示されること”を前提とした空気があった。
シークはあやのに笑顔で語った。
「美しいものは、外にあるべきではない。
ここで、あなたは永遠に“守られる”。音も、声も、あなたも」
あやのは静かに立ち、目を閉じる。
口元がかすかに動いた。
――ハミングが、始まった。
その旋律は、空気を震わせ、部屋の柱に微細な亀裂を走らせる。
あやのの“星眼”が、わずかに光を帯びていた。




