第三十五章 世界が見た光
写真展「The Soundless Requiem」は、パリ五区の老舗ギャラリーにて静かに開幕した。
特別な宣伝はなかった。ただ一枚のポスターと、会場に飾られた一枚の写真――**あやのの“沈黙の歌”**が、来場者の胸に深く突き刺さった。
展示初日。
黒いコートを羽織った老婦人が、何時間も写真の前に佇んでいた。
やがて静かに涙を流し、頷きながら小さく祈るような仕草をして立ち去った。
口コミが、波紋のように広がっていく。
やがて美術誌、音楽誌、哲学系の論壇までが騒ぎ始める。
「あの瞳は何を見ていたのか」
「写真でありながら音楽のように響く。芸術の境界を超えた一枚」
「まるで死者の記憶が写っているようだ」
「否、これは生者の祈りの記録だ」
音もない一枚の写真が、世界に“音”を響かせていた。
パリ中心部、司郎デザインの欧州支部。
資料の山を積んでいたデスクで、司郎がふと手を止める。
無骨な手でファッション誌をめくると、そこに写るあやのがいた。
衣装は羽のように軽やかで、髪は月光をまとったように淡く流れ、
小さなその身体から、圧倒的な存在感が放たれていた。
「フェアリーサイズの奇跡」――どの雑誌にも、そんな見出しが踊る。
司郎は鼻で笑った。
「まったく、子どもを飾り立てて。だが……よく撮れてる」
「……ですね」と横で頷いたのは、珍しくファッション誌を熟読していた梶原だった。
彼の目線は、あやのの視線に向けられていた。
写真のなかの彼女は、まっすぐにカメラを見ていない。
どこか、遥か先――まだ見ぬ未来を見つめているようだった。
「このままじゃ、また変な奴に目をつけられるぞ」
「すでに、いくつか“打診”が来てます」とあやのが廊下から顔を出す。
パリ近郊の音楽サロン――
その晩、あやのは招待を受けてある私的な演奏会に出席していた。
ピアニスト、チェリスト、声楽家――誰もが世界的な音楽家であり、
そこに**「グレイマンのかつての弟子」**と紹介された人物が現れた。
彼女の名はヴィオラ・エストレーラ。
髪を真っ直ぐ後ろに束ねた冷ややかな女性で、手には古びたヴァイオリンを携えていた。
「グレイマンに、“音の継承者”が現れたと聞いたわ。まさかこんな子供とはね」
ヴィオラは皮肉まじりにそう言ったが、あやのは何も言わなかった。
ただ、一礼し、ハミングを始めた。
その音は、風のようだった。
軽やかで、透明で、だが決してかき消されることのない芯を持っていた。
ヴィオラの眼差しが、静かに変わる。
楽器を構え、あやのの旋律にヴァイオリンを重ねる。
まるで時間が静止したような空間に、音の糸が編まれていく。
二人の演奏が終わると、そこにいた全員が――沈黙のまま立ち上がり、拍手を送った。
それは賞賛ではなく、“立会人としての礼儀”だった。
彼らは確かに目撃したのだ。
音楽のなかに宿った何かが、時を超えた瞬間を。
この一夜が、あやのをさらに世界の表舞台へ押し上げることになる。
だが、その光は同時に――砂の王国の目にも留まることになる。




