第三十四章 一枚に宿る魂
サイモン・ヴァルターのアトリエに、再びあやのが現れたのは、朝の雨がちょうど止んだころだった。
光はまだ差し込まず、空気のなかに水の気配が漂っていた。
無言で出迎えたサイモンは、古いレンズを手にしていた。
デジタルではない。アナログの、巨大な蛇腹式カメラ。
被写体の姿だけでなく、その**“空間”ごと切り取る**ための機材だった。
「喋らなくていい。音も要らない。きみが“沈黙の中心”になるだけでいい」
あやのは頷くと、ゆっくりと鏡の前に立った。
それは撮影の準備というよりも、まるで自身と向き合う儀式のようだった。
シャッターの音は重く、まるで扉が閉まる音のようだった。
サイモンのカメラはあやのを何枚も撮ったが、どれも同じにはならなかった。
彼のレンズが捉えるのは、あやのの「形」ではなく――その内側で静かに“反響”しているもの。
ときおり彼女の瞳がかすかに揺れる。
それが「星眼」の光だとは誰にもわからない。
だがレンズの奥にいるサイモンだけは、そのわずかな震えを感じていた。
そして最後の1枚を撮るとき、サイモンは言った。
「歌ってごらん。声じゃなく、想いで。きみが誰かに贈った最初のレクイエムを」
あやのの唇が震えた。
目を閉じる。
想いを届けたい誰か――すでにこの世にいない誰か。
あるいはまだ言葉を交わしたことのない、遠い来世の誰か。
心の底から湧きあがったものは、音ではなく波紋だった。
無音のなかで空気が振動し、世界が一瞬だけ色を変えた。
サイモンがシャッターを切ったその刹那――
彼の瞳に涙が浮かんでいた。
「これだ」と彼は呟いた。
「これを見せるために、私はずっと旅をしてきた」
数日後――
サイモンの写真展に出されたその1枚は、「The Soundless Requiem(音なき鎮魂歌)」と名付けられた。
その写真は、たった一枚で世界の美術界を震撼させた。
誰もが語る。
「この少女は歌っている」「いや、静かに祈っているだけだ」
「魂が写っている」「これは、死者の記憶を呼び起こす写真だ」と。
しかし、真実を知る者は少ない。
それが――死者のための歌であり、生きる者の心を揺らす、あやのの“音楽”そのものであったことを。




