第三十三章 眼に宿るもの
パリ・マレ地区。石畳の静かな通りを一本入った先に、
古びた木製の看板が控えめに揺れている。
そこは、知る人ぞ知る世界的写真家・サイモン・ヴァルターのギャラリー兼アトリエだった。
レミの紹介で訪れたあやのは、くすんだガラス越しに飾られた数点のポートレートに目を奪われた。
それは、どれも光を写したものではなく、「沈黙そのもの」を定着させたような、奇妙な写真だった。
サイモンはすぐには姿を見せなかった。
古時計が三回、静かに鳴ったのち、背後から声がした。
「ようこそ、フェアリー。きみが“レクイエムを歌う建築士”か」
低く、枯れた声。
振り返ると、痩せた初老の男がそこに立っていた。
長く白い髪と、海のように深い瞳――それが、サイモン・ヴァルターだった。
「きみの写真を撮らせてくれないか」
それが開口一番の言葉だった。
「私はモデルではない」とあやのが答えると、サイモンは微かに笑った。
「わかってるさ。きみの“姿”には興味がない。だがきみの“音”が、ここを通ってしまったんだ」
そう言ってサイモンが差し出したのは、昨日のファッション誌とはまるで違う印象のモノクロプリントだった。
それは――あやののハミングが残響として、空気を震わせる瞬間を写し取ったような一枚だった。
そこに写る少女は、確かに“歌って”いなかった。
ただ、空気の中に“響き”が存在していた。
「きみの音楽は、世界の皮膜を振るわせる」
サイモンは壁の写真を指差した。
「これは死者の眼差しを撮ったもの。
だがきみの中にある“レクイエム”は、死者を送り出すだけでなく、呼び戻す可能性を秘めている」
あやのは目を伏せた。
グレイマンに教えられた“祈り”のかたちが、彼女の中で別の意味を帯び始めていた。
サイモンとの対話の後、外に出たあやのは、しばらく言葉もなく空を仰いだ。
パリの空は白く、柔らかく、しかしどこか――薄氷のように脆かった。
「……彼は私の中に、“誰か”を見ていた気がする」
星眼の奥に、何かが静かにきらめいた。
誰かがずっと、自分の音に“応えて”いる。
それが誰なのか、まだ彼女は知らない。
だが、あやのは確かに“誰かを呼ぶ音”を、
自分の中で育て始めていた。




