第二十九章 亡き者たちのための譜面
沈黙の庭——Le Jardin Muetでの一夜が明けた朝。
パリの曇り空に、教会の鐘がにじんで聞こえる。
あやのは音楽院近くの石畳を歩きながら、グレイマンの言葉を反芻していた。
「亡き者たちに祈れ」。
その祈りのかたちを、まだ知らないまま。
ミレーユから渡された封筒は、白い布に包まれた手稿だった。
封蝋には、あの物静かなグレイマンのイニシャルが刻まれていた――G.M.
司郎と梶原は別件でブルッヘの現場へ。
ひとりになったあやのは、ホテルの静かな部屋に戻り、封筒を開けた。
中には五線譜が一冊と、グレイマンが遺した手紙があった。
「この旋律は、君のハミングから始まる。
それは私の人生で出会った音楽たちの終わりであり、
君の始まりになるだろう。
君がもし、亡き者たちに歌を届けるなら、
この譜面に君自身の声を刻みなさい」
譜面は、空白が多かった。
あきらかに未完成のまま、誰かの声を待っているようだった。
そのとき、不意に部屋の外からバイオリンの音が聞こえた。
あやのはそっと窓を開ける。
そこには沈黙の庭の音楽家たちが、あやのの滞在を祝うかのように、自然と集まり始めていた。
あの夜の音の輪が、街に広がっていたのだ。
夜、あやのはグレイマンの楽譜を胸に、沈黙の庭の礼拝堂へ向かった。
そこにいたのは、ミレーユ、盲目のチェリスト、フランス系ユダヤ人の声楽家、
それに、グレイマンと若いころ旅をしたことがあるという老クラリネット奏者・ルノー。
誰もが、何も言わずに譜面の周囲に集まり、音を合わせていく。
あやののハミングが、先導する。
低く、柔らかく、震えるように。
そしてそこに、あやのが初めて紡いだ詩が乗る。
“風が揺らした 君の名を
誰も知らずとも 響け
眠れる魂に 願いを
やがて花の音になる”
音が、空間に満ちていく。
誰も言葉を発さず、誰も涙を見せず、ただ音に身を委ねる。
これは死者のためのレクイエムではない。
生きる者が、死者と共に歌うレクイエムだった。
あやのの目には、一筋の涙が伝っていた。
それはグレイマンへの別れであり、
これから続く未来への祈りでもあった。




