第二十八章 音の肖像たち
パリの黄昏は、建物すべてが楽器のように見える――
そうあやのが感じたのは、セーヌ川沿いの歴史ある音楽院に招かれた日のことだった。
そこは音楽と建築が混ざり合った、古びた礼拝堂を改築したサロン・ド・コンサート。
小さな石のアーチの中に、ヨーロッパ各地の音楽家たちが集まり、自由な即興演奏を交わしていた。
「Le Jardin Muet(沈黙の庭)」
それがこの集まりの名前だった。
名前とは裏腹に、そこには沈黙などなかった。
呼吸と、振動と、視線と、わずかな音の気配が織りなす、名もなき対話が続いていた。
あやのが招かれたのは、SoundGarden計画でのハミング動画が、サロンの主宰者――盲目のピアニスト「ミレーユ・フォーレ」の耳に届いたからだった。
「グレイマンに教えを受けた子は、久しぶりね」
その言葉に、あやのの体がわずかに揺れた。
「ご存知なんですね、グレイマンのことを」
ミレーユは、白い指を鍵盤に置き、ため息のような旋律を弾き始めた。
それはグレイマンから教わった、かつてのレクイエムの前奏だった。
「彼が若かったころ、パリで一度だけ、私たちは音で会話をしたの。彼は“死者の音”を聞ける男だった。あなたの中にも、同じ響きがある」
あやのは言葉を失ったまま、ただ旋律を聴いていた。
遠くグレイマンと過ごした日々が、目の前の空間に揺れて見えるようだった。
彼のハミング。
彼の背中。
そして、最後にあやのに託した“詩”。
「風に還るなら、花の名を呼べ。
音に還るなら、亡き者たちに祈れ」
この夜、あやのは再び一人でハミングを歌った。
音の輪が、沈黙の庭に広がってゆく。
周囲の音楽家たちは一人、また一人と呼応するように、自らの音を重ねた。
バイオリン、クラリネット、声、指の鳴らす拍子。
音が重なり、溶けていき、
――やがて一つの《祈り》になった。
その夜、サロンにいたすべての人間が、忘れられないと感じたのは、
“曲”ではなく、“何か大切なものに触れた感覚”だった。
あやのは知る。
自分がグレイマンの遺した“連鎖”のなかに、確かに存在していることを。




