第十二章 出る者たち、聞こえる声
改装の作業は、まだ始まっていなかった。
契約の手続きが終わる前に、最低限“あやつら”と顔を合わせておく必要があった。
――そう、司郎は言った。
「本当に出るから、“出るビル”。冗談じゃなく、ね」
三階の踊り場に差しかかると、空気の温度が一段低くなった。
ぶつぶつと、誰かが何かをつぶやいている。
だが、それは明確な言葉にならなかった。
あやのは、その場に立ち止まり、ゆっくりと頭を下げた。
「こんにちは。通らせていただきますね」
すると、天井の蛍光灯がチカッと一瞬、明滅した。
――了解。
あやのには、そう聞こえた。
それが「踊り場の田中さん」との、最初の挨拶だった。
過労死した元サラリーマン。
退社前のひとときを繰り返し、時間の記憶の中でぐるぐると歩き続けている。
田中さんは無害だ。
ただ、気配に気づかれないと不機嫌になるだけ。
次にあやのが足を踏み入れたのは、トイレだった。
薄暗い照明の下、水がぽたぽたと漏れる音が響いていた。
鏡の前に立つと、すっと背後に気配を感じた。
それは、無垢で、柔らかく、ひんやりとした存在。
「あの……ここあぶないよ?」
ぽつりと、子どもの声がした。
あやのは振り返らず、鏡に向かって笑みを浮かべた。
「ここ、きれいにしますね。水の音が、かわいそうだから」
しばらくの沈黙ののち、どこか嬉しそうな気配が背後に広がった。
――それが、「トイレの太郎くん」だった。
交通事故で命を落とした少年の霊。
遊びたがりで、いたずら好き。
けれど、寂しがりやで、人が来ると安心する。
あやのの声は、彼にとって“音楽”だったのかもしれない。
それからというもの、太郎くんはあやのの後をぴょこぴょことついて回るようになった。
しかし、最も強い霊は、エレベーターにいた。
その古びたエレベーターは動かず、封鎖されていた。
だが、誰かがそこにいるのは、誰の耳にも分かった。
金属が鳴る。
ロープが軋む。
扉の奥から、低い笑い声。
「乗るかい?」
その声が聞こえた瞬間、空気が一変した。
あやのの背後にいた司郎が小さく舌打ちする。
「山形さんだ。自殺したんだってさ。首吊り。好きなのよ、驚かせるのが」
あやのは、目を閉じて耳を澄ませた。
エレベーターの奥にいるのは、“遊びの霊”だった。
怖がらせて楽しむタイプ。
けれど、そこに明確な“悪意”はなかった。
そっと、ドアに手を当てる。
「こんにちは、山形さん。わたしたち、ここでお仕事することになりました。仲良くしてくださいね」
沈黙――
そして、ガタンッという音とともに、扉の内側で誰かが転んだような気配。
「……っぶねー、優しすぎて気が抜けた」
低い声がそう呟いたあと、エレベーターの空気はすっと軽くなった。
けれど、そこにはもうひとつ、異質な存在があった。
それは、四階の旧資料室。
扉は閉まっているのに、向こう側から視線だけが突き刺さってくる。
重い。
濁っている。
「……ここ、司郎さん、開けない方がいいです」
あやのの声は、かすかに震えていた。
それは“音”ではなかった。
――“呻き”だった。
生きた者を呪い、傷つけるためだけに残った“呪声”だった。
「祓えんの?」
「はい。でも、わたしだけでやります」
司郎は黙って頷き、後ろに下がった。
あやのはひとりで扉の前に立った。
指先をそっと当てると、中の空間が音のない真空になっているのを感じた。
その中に、ドス黒い何かが渦巻いていた。
彼女は静かに歌った。
誰も知らない、妖怪の里の子守唄。
人間の言葉ではない。
風と土と霧と――そして“声にならないものたち”のための旋律。
建物が一瞬、震えた。
窓がカタカタと鳴り、屋根裏で何かが逃げるような音がした。
数秒ののち、部屋の空気が、すうっと抜けた。
古い腐臭が和らぎ、重さが消えた。
「……もう、大丈夫です」
そう言ったあやのの頬は、ほんの少しだけ汗ばんでいた。
扉の奥からは、もう何も聞こえなかった。
やばい霊は、祓われた。
そして、「出るビル」はようやく、“住まう場所”としての命を得た。