第二十二章 遠くて近い場所 ― パリの光、日本の夜
東京・夜、通称「出る事務所」
夜10時を回ったころ。
「出る事務所」にはぽつんと灯りがともっていた。
音もなくモニターを見つめているのは、臨時で留守を預かっている大学院生の沙月だった。
あやのの展示がライブ中継されていた画面はすでに審査終了後に切り替わっているが、タイムラインには日本語の感想が次々と流れていた。
@tokyo_kenchiku_club
あの空白を、建築と呼ぶのは勇気がいる。
でも、あれ以上に“都市”を感じた空間もない。
@mono_voice_arch
誰も喋っていないのに、ずっと語りかけられていた。
これを建築じゃないって言う人間とは、仕事したくないな。
沙月はふっとため息をつき、キッチンの電気をつけた。
「……あやのさん、やっぱり“伝える人”だったんだな」
彼女の呟きに、壁の中から踊り場の田中さんが「うむ……」と重い声でうなずいた。
「最初から、伝わってはおったのだ……あの空気感は……。我々の時代には、なかった種類の建築じゃよ……」
「うるさい田中さん、寝ててよ」
「ふむ、もう死んどるがの……」
沙月は笑いながら、パスタの鍋に火をかけた。
あやのがいない夜の事務所は静かで、でも、誰かがいるような気配があった。
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SNSの夜、建築関係者たちのざわめき
@kenchiku_nakata
真木あやの。あの子がまだ25だって信じられるか?
言葉の強さと、沈黙の重みを両方使い分けてる。
@over40_architect
あの展示、学生の頃に見てたら設計辞めてたかもしれん。
やられたな。完敗。
@paris_biennale実況
審査員の何人か、展示終了後にずっと動かず残っていたらしい。
真木あやのの空間、なんか残るんだよな……
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東京、甲斐大和の部屋 ― 夜11時半
甲斐は、ソファの背にもたれてスマホを握っていた。
ライブは終わっていた。
でも画面を閉じられない。SNSは既に熱を持っていて、どの投稿にも“彼女”の名前がある。
「……あれが、“あやの”かよ」
かつて、言葉を濁していた彼女が――
視線を伏せ、何かを説明しかけて飲み込んでいたあのあやのが――
あんな風に、“誰かのために”語るなんて思ってもいなかった。
甲斐は、ゆっくりと目を伏せた。
「俺は、あいつの“静かさ”を守ろうとしてた」
「でもあれは、閉じ込めてただけだったんだな……」
悔しさにも似た痛みが胸を刺す。
彼女が話すたび、彼女が黙るたび、それに“自分”の理屈を重ねていた。
「喋らなくていい。俺だけがわかっていればいい」
――それを愛だと、思い込んでいた。
スマホを伏せた甲斐は、深く息をついた。
窓の外は、梅雨入り前の湿った空気。
ふと、机の上に置いていたパリ行きのチケットに目が留まった。
半年前に買ってあった未使用の便。
もう使うことはないと思っていた。
だが今、甲斐の手が――そのチケットにゆっくりと触れる。
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一方パリ、ホテルの一室
梶原は、深夜の窓辺でコーヒーを淹れていた。
あやのは部屋のソファで眠っている。審査を終えて疲れきっていた。
彼は音を立てないように湯を注ぎながら、ふっと呟いた。
「……誰かのために、言葉を出せたから、すごいんだな」
パリの夜風が、静かにカーテンを揺らした。




