第二十一章 公開審査ー図面のない建築
礼拝堂に審査員が入ってきたのは、朝の十時を少し回った頃だった。
分厚い石造の扉が開くたび、パリの風が細く吹き込み、
かつて祈りが捧げられていた祭壇跡の空間に、一つずつ人の気配が加わっていく。
展示は手つかずのまま、昨日と同じ状態。
ただし今日は、中央に小さな白い椅子が一脚、置かれていた。
あやのはそこに座り、観客を迎える形で、正面を見つめている。
――目立たないが、すでに“音”は流れていた。
遠くの足音、誰かが椅子を引く音、紙をめくる音、
“都市が無言のうちに立てる呼吸”が、礼拝堂全体にほのかに染みていく。
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審査開始。誰も語らない空間
壇上に立った最初の審査員、ジョルジュ・テンフィが周囲を見渡し、小さく頷いた。
「これは……展示ですか? それとも、ただの“空白”ですか?」
彼の問いかけに、他の審査員たちがメモをとりはじめた。
その沈黙の中で、あやのが静かに立ち上がった。
スライドもパネルもない。
あるのは彼女の声と、空間に漂う“聴覚のレイヤー”。
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あやのは、語る。
「設計図は、正確な指示を与えるためのものです」
「でも私は、この場所を設計する時、“誰かに残してしまう何か”を作ろうとしました」
言葉が、礼拝堂に響く。
けれどそれは、押しつけるものではなく、
まるでこの空間に**“元からあった声”をなぞる**ような話し方だった。
「ここに吊るされた図面は、未完成の断片です」
「けれど、その間を通って、あなたが歩き、息をして、何かを思い出したなら――それが、建築です」
「人は、音の中にいちばん多くの“記憶”を残します」
「私は、建築の中に“あなたの記憶が入る場所”を作りたかったのです」
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聴衆の変化
最初は戸惑っていた来場者たちも、
やがて“音に導かれて”移動し始めた。
祭壇跡に立ち、椅子の横に座り、壁を見上げる者。
流れる録音に耳を傾けて、いつしか目を閉じている者。
誰もが、自分の中の“記憶”と向き合っていた。
審査員の一人が、小声で漏らした。
「これほど“解説が不要な展示”があるとは思わなかった」
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質疑応答
質問が求められたとき、あやのははっきり答えた。
「あなたが“これは建築ではない”と言うなら、それでいいです。
でも、“これはあなたの空間ではない”とも、私は言いません」
一人の若い審査員が問う。
「この展示に、正しい鑑賞方法はあるのですか?」
あやのは、少しだけ微笑んだ。
「ありません。でも、あなたが感じたものは、すべて正解です」
その答えに、空間が静かに揺れた気がした。
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司郎と吉田、遠くから見守る
礼拝堂の外、石の柱の影に立つ二人の男。
司郎は手をポケットに突っ込んだまま、煙草を咥えている(火はつけていない)。
「……あの子、やりおったな」
「言葉なんか使わなくても空間作れるのに、あえて言った」
吉田が短く返す。
「じゃなきゃ届かない相手がいたんでしょ。自分のためじゃなく、相手のために語る言葉ってのは、強いから」




