第二十章 決戦前夜
その夜、礼拝堂にはもう誰もいなかった。
展示はそのままに、ライトだけが落とされている。
外ではパリの風が石畳を鳴らしていたが、
中は、あいかわらず“静けさの密度”が高かった。
あやのは展示の中央、吊られた透過図面の前に立ち、
録音されていたパリの無音を止めて、
自分の声で、それを置き換えた。
「これは、設計図じゃありません」
「これは、まだ“誰のものでもない風景”です」
「ここに来た誰かが、自分の記憶や、夢や、後悔や、愛を重ねた時……はじめて、これは空間になります」
言葉にして初めて分かったことだった。
建築は、完成されたものではなく、
誰かの記憶が触れたとき、初めて“立ち上がる”ものだと。
「だから、音を置きました」
「音は、触れずに触れるから」
「声は、誰かの中に“残ってしまう”から」
その声は誰に向けたものでもなく、
けれど、録音機が静かに再生を開始し、それを空間の中に留めた。
⸻
その頃、展示会本部では——
最終審査の準備が、淡々と進んでいた。
審査員の名前が一部明かされる。
そこに、**「ジョルジュ・テンフィ」**という老教授の名があった。
――そう、かつての音響建築の先駆者。
NYでのあやのの“Silent Requiem”の録音を聞き、強く反応していた人物。
その横にいた女性スタッフが、彼に尋ねる。
「どの展示に注目されていますか?」
教授は短く答える。
「“無音を設計した者”がいると聞いてね。久しぶりに楽しみにしている」
⸻
そして、礼拝堂の扉が静かに開く。
あやのが振り返ると、
薄暗がりに現れたのは、細身の青年――吉田 透だった。
「……あんた、言葉使えるようになったのか」
かすれた声で、彼が言った。
「パリまで来て、ようやく、ですね」
あやのが、少しだけ笑う。
「設計ってさ、図面描くより前に、どんな“目”で空間を見るかが全部じゃない?」
吉田はフィルムに投げられたあやのの影を見つめながら、続ける。
「俺には見えなかった。けど、君は**“音で見る”**んだよな」
⸻
翌朝。審査の日。
展示会場には、報道陣が入り混じる。
各国のメディアがアルテクの展示に集まり、
その一方で、「無音の展示」にも奇妙な注目が集まりはじめる。
礼拝堂の扉が開くと、すでに人が並んでいた。
その列の中に、
ジョルジュ・テンフィ教授の姿があり、
そして――あやのの背後には、無言のまま立つ司郎と吉田。
彼らが見ているのは、彼女ではなく、
空間そのものが語りはじめる瞬間だった。




