第十一章 出るビル、その声
埃の匂いがした。
東京に到着した翌日、司郎とあやのは朝一番でその建物の内部に足を踏み入れた。
古い鍵は錆びていて、開錠のときに嫌な音を立てた。
玄関の扉が開いた瞬間、冷たい空気がふたりを包んだ。
それはまるで、誰かが中から吐いた溜息のようだった。
建物は、静かに眠っていた。
誰も使わなくなったことを嘆くでもなく、ただ、じっとしていた。
四階建て、レンガ造り、テラス付き。
玄関脇にある錆びた銘板には「旧・櫻建築設計事務所」と書かれていたが、塗装は剥がれかけて読みにくかった。
中へ進むと、裸電球のついた配線がぶらさがっていた。
壁紙は湿気で浮き、床は一部が沈んでいる。
だが、あやのの目は、その荒れた空間の中に“生きたもの”を感じ取っていた。
階段を上る。
足音が反響し、鉄骨がわずかに軋む。
その音が、不自然なほどに澄んでいた。
「……何か、いるね」
あやのが小さく言った。
司郎は特に驚きもせず、鼻を鳴らした。
「いてもいい。追い出さなきゃな。商売の邪魔になるわ」
三階の踊り場で、ひときわ空気が重くなった。
壁際の埃が、風もないのにふっと舞う。
あやのは立ち止まり、目を細めた。
何かがこちらを見ていた。
だがそれは「憎しみ」ではなく、
ただ「見られている」だけの感覚。
踊り場の空気に浮かんだのは――
背広姿の男だった。
ネクタイを締め、疲れきった顔をした中年。
彼はただ、そこに立っていた。
あやのは軽く一礼した。
「こんにちは」
その瞬間、空気が和らいだ。
司郎が背後からボソリと呟いた。
「…話が早くて助かる」
四階の元事務室は、広く開けていた。
壁一面の書棚。窓際に長い作業机。
光の角度のせいか、そこだけ時間が止まっているようだった。
あやのは、部屋の隅に立って、目を閉じた。
すると、聴こえた。
古い機械の残響、使われなかった椅子の軋み、
何年も動かされなかったカーテンのすれる音。
人がいた痕跡の“音”が、建物のあちこちにまだ染みついていた。
「……ここ、直せます」
「そりゃそうよ。アタシがいるんだから」
司郎はメジャーを引っ張り、床にしゃがみこんだ。
図面を描くスピードで、改修の計算を始める。
「ただし、金はギリギリ。
廃材再利用、手作業、設計も施工も全部うちでやる。
業者に出す予算はないわ」
「……梶くんが来れば、少し楽なんですけど」
「どこにいるか分かるの?」
「いいえ。でも、そろそろ来る気がします」
不思議なことを言う子だと、司郎は思ったが、もう慣れていた。
この子の直感は、当たる。
ふたりは、窓を開けた。
錆びた窓枠がきぃ、と音を立てる。
そこから吹き込む風は、都心のビル風よりもずっと穏やかで、
なぜか遠野の山風に少し似ていた。
こうして――
幽霊が棲む古ビルは、真木あやのと司郎正臣の手に渡った。
名もなき事務所は、やがて「出る事務所」と呼ばれるようになり、
東京で小さな波紋を広げていく。