第十七章 ガラスの紳士と、青い会話
その夜、展示が始まってから初めて、会場に静かな熱気が満ちていた。
光に浮かぶ《lieu sans nom(名前のない場所)》の前には、絶えず小さな輪ができている。だが誰も、大声を出さない。
人々は囁き合い、長くそこに立ち、そして立ち去っていった。
あやのは、構造体の影に立ち、流れるようなその気配を眺めていた。
ふと、背後から声がする。
「あなたがこの“場所”の設計者ですか?」
低く、澄んだ、よく通るフランス語交じりの英語だった。
あやのが振り向くと、そこにはガラスのように透き通る銀縁眼鏡をかけた中年の男性が立っていた。
スーツでも作業着でもない、黒いロングコートに身を包んでいる。
「いえ。設計は司郎さんです。私は——」
「なるほど。あなたは“運ぶ人”ですね」
「……運ぶ?」
「はい。言葉、木材、光、沈黙——そういうものを、ちゃんと“ここ”へ運んでくる人の眼をしています」
あやのは、言葉に詰まる。
この男、只者ではない。だが、敵意も、賞賛も、ない。ただ、透明なまま立っている。
「あなたは批評家の方ですか?」
「そう呼ばれることもあります。“ガラスの紳士”と書かれることも。ですが、私はただ、建築の耳になりたいだけですよ」
「耳……ですか」
「そう。建築が“語りたがっている声”を、ただ聴きたいのです」
彼は、構造体の接合部を指差した。
「これは面白い。何も主張しないが、拒絶もしない。訪れる人間の数だけ、構造が意味を変える。だが——」
「だが?」
「この建築は、いまはまだ“あなたの声”で語っていない」
その言葉に、あやのは目を見開く。
「今は、司郎氏の理性と技術の上に立っている。けれども——あなたはすでに、違う軸を持っているはずだ」
しばしの沈黙。
あやのは、口を開いた。
「私にとって建築は、“歌”みたいなものなんです」
紳士の眉がわずかに動く。
「旋律が先にある。でも、形にするには他人の手が要る。だから、ハミングして、運んで、誰かに建ててもらう。……私には、まだ、自分で“建てた”ものが、ない」
「では——今度はあなたが歌詞を書く番です」
「歌詞……?」
「設計図ではなく、設計“詞”。この構造体を、次の場所へ連れて行くとき、誰の言葉で語らせるか。誰の記憶で照らすか。それが、“あなた”です」
そう言うと、彼はポケットから青い封筒を差し出した。
「これは、“次の夜の入り口”です。もしよければ、開いてみてください」
そう言って、ガラスの紳士は回廊の闇に消えていった。
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封筒の中には、パリ市内の古い礼拝堂の住所と、手書きの一文。
“A place that forgets its own shadow. Bring your light.”
(影を忘れた場所。あなたの光を持って、おいで)
あやのは、握った封筒の青を見つめた。
それはまるで、夜の中に生まれたひとしずくの朝のようだった。




