第十六章 影の位置と、照らすもの
翌朝、パリの中庭に細く陽が射す頃。
「司郎デザイン」の構造体は、まだ“なにか”になりきれていなかった。
無垢の梁が互いに身を預け、平衡を保ちつつも、意味はまだ宿っていない。
「ここまでは、ただの“かたち”ね」
司郎が足場の上から見下ろす。
「ここから先、“場”になるには、なにかが要る」
ちょうどそのとき、中庭の石畳に軽い足音が響いた。
「Excusez-moi, je suis… ah, bonjour!」
やってきたのは、若い照明デザイナー。名をリナ・モンテールという。フランスとスペインのハーフ。くせ毛をまとめたおだんご頭に、工具入りの革ポーチを提げている。
「あなたたちが“Nomad Japanese”ね。噂は聞いたわ」
「誰よその変な名前」
「昨日、プレートなかったので、通称で呼ばれてるみたいです」
あやのが苦笑いする。
リナは、構造体をぐるりと一周して見て回る。
そして、一言。
“Your building… doesn’t want to be seen.”
(あなたたちの建築は、“見られたくない”みたい)
司郎の眉がわずかに動く。
「面白いこと言うじゃない。じゃあ、どうしたら“見せられる”のかしら」
「照らすんじゃないのよ。余白を暗くするの」
リナは、器具の入ったケースを開けた。中には、工場用の古いランプと、ピンスポットが数点。
「この建物、自己主張がない。でも、周囲を落とせば、そこに浮かぶ。影が、意味を引き出すの」
⸻
日没前。
回廊の壁に設置されたランプが、徐々に光の焦点を合わせていく。
リナの指示で、光は構造体の接合点だけを照らした。
柱と梁の“つながる場所”だけに、ほのかに光が浮かぶ。
他は、すべて暗い。
その瞬間、無意味だった材が「選ばれた線」に変わった。
ただの骨組みが、詩のような構造体に見える。
会場の他の建築家たちが、足を止める。
「これは……構造だけか?」
「違う。構造に、“選択された光”がある」
誰かがぽつりと呟いた。
⸻
司郎が、煙草を咥えながらつぶやく。
「……負けてられないわね、あたしら」
あやのは、リナの背中を見つめながら静かに言った。
「彼女、きっと誰よりも“見えてる”んだと思う」
「見えてる、じゃなくて——“照らしてる”のよ」
司郎が、珍しく優しい口調で返した。
⸻
その夜、無名の構造体に名前がついた。
《lieu sans nom》
——“名前のない場所”
だがそれは、誰よりも雄弁に空間を語る作品となり、
パリ・ビエンナーレ初日の夜を、静かに震わせていた。




