第十二章 パリへの招待
事務所の朝は、トーストの匂いと誰かが落としたスケッチブックの音で始まった。
「はいはい、また梶くんが寝ぼけて資料ごと床に撒いたわよ〜」
真木あやのが苦笑しながら、紙を一枚ずつ拾っていく。梶原は寝癖をつけたまま、いつもの無言で頭を下げた。
そのとき、トントンと古いガラス扉を叩く音。
「ごきげんよう、君たち」
現れたのは、建築界の重鎮・澤井教授。白いスーツに細いステッキ。澤井はいつも通り、勝手に事務所へ上がり込む。
「今日はね、いい土産話を持ってきたんだ。パリのビエンナーレ、今年のテーマは“不可視の建築”。きみたち、出ろって推薦しておいたから」
「はぁ?」
司郎が目を細めた。
「冗談じゃないわよ、教授。あそこ、ヨーロッパ中の目が集まる大舞台じゃないの」
「冗談じゃないから、言ってるんだよ。君たち、“見えないものを設計する”のが得意じゃないか。霊的現象すら素材にして空間を立ち上げる。あれは、君たちにしかできない建築だ」
あやのは、その場に固まった。彼女の胸の奥に、“見えないもの”の最たるものが眠っている。星眼——誰にも見えず、誰にも理解されない、自分自身の核心。
「……無理です、そんな舞台に、私たちが……」
「お黙り。行くのよ、アンタは」
司郎が断言する。「行って、ぶっ壊してきなさい。向こうのアーティスト気取り共をね」
梶原は黙って、資料をパリの気候情報へと切り替え始めていた。
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数日後、事務所のテラスにて。
エッフェル塔の模型と、黒い小さな旅鞄。真木あやのがそれを眺めながら、紅茶を一口。
「……司郎さん、本気なんですね」
「当たり前でしょ。あんたが世界に何を“見せない”のか、ちゃんと暴いてくればいいのよ」
「ふふ……梶くんが、パスポートの手続き一番に終えてたの、笑っちゃいました」
「愛ねぇ」
空を見上げると、どこか遠くからパリの風の香りがした。まだ見ぬ何かが、あやのたちを呼んでいる。




