第十一章 夜明け前音のない別れ
夜明け前の空は、墨色に濃淡を宿していた。
あやのは廃校の屋上で風に吹かれていた。
グレイマンはいつものように背を丸め、古いコートの襟を立てていた。
二人の間に言葉はなかった。
今さら何かを言葉にする必要もなかった。
静けさが、音楽だった。
遠く、街の灯りが少しずつ色を変えてゆく。
その下で生きる無数の人々の人生が、今日もまた始まろうとしていた。
グレイマンがポケットから折れた万年筆を取り出し、あやのに渡した。
傷だらけでインクも乾いていたが、それは確かに彼の歴史そのものだった。
「これは…」
あやのは受け取った瞬間、胸が少しだけ痛くなった。
それが「さよなら」の代わりであることが、すぐにわかったからだ。
「詩を書きなさい」
ようやく彼が口を開いた。
「自分の旋律に、言葉を。言葉のなかに、沈黙を。君ならできる」
それだけを言って、グレイマンは背を向けた。
エレベーターは使えない。階段をゆっくり下りていく靴音が、まるでリズムのようにあやのの耳に残った。
音が、消えた。
そのとき、あやのは涙が出るわけでもなく、ただ、心のどこかにぽつんと空白ができたように感じた。
だが、風が吹き、朝の光が彼女の髪を撫でたとき──
その空白は、音楽で満たせるものだという確信だけが残った。




