第十章 東京、はじまりの雑音(ノイズ)
東京の空気は、重かった。
新幹線を降りた瞬間、あやのはそう思った。
湿度でも気温でもない。
空気の密度がちがった。
目に見えない網の目が、この都市をくまなく覆っているようだった。
人が多い。
看板が光る。
音が鳴り止まない。
誰もが、何かを待っているような顔をして歩いている。
だが――
真木あやのにとって、それは「音楽」だった。
遠野の山々では風が笛を吹き、
仙台ではコンクリの振動が律動を持っていた。
そして東京は…雑音だった。
いや、“雑音の中にある旋律”だった。
駅のアナウンスがひときわ高く、
工事の金属音がリズムを刻み、
自動ドアの開閉が拍子をつくる。
信号が歌い、靴音が対位法のように交差する。
すべてが「演奏されている」ようだった。
誰も気づいていない音楽。
誰も意図していない交響曲。
それを、あやのだけが聴いていた。
「止まんないの。荷物盗られるわよ」
司郎の声に振り向くと、彼はすでにタクシー乗り場の列へ歩き出していた。
黒縁メガネの奥の目は、都市の猥雑さなど気にも留めていない。
ただ、目的地――“例の物件”へ向かう意志だけが、彼を前へ押していた。
あやのは、無言でその背を追った。
タクシーの窓から見える東京の街は、まるで夢の残骸のようだった。
新しい建物と、古い空きビル。光と影。高架と河川。
どれもが、どこか途切れていた。
それでも人は、歩き続けていた。
司郎はスマホも地図も見ない。
まるでこの街が彼の庭であるかのように、目的地へ着いた。
それは――古いレンガ造りの、四階建ての廃ビルだった。
風にさらされ、壁の一部が剥がれ、玄関には「貸物件」のプレートが斜めにかかっている。
けれど、あやのの目には、何かがはっきりと見えていた。
その建物は「音」を持っていた。
遠野の森が低く唄い、仙台のコンクリが反響するように、
このビルは――呻いていた。
風の通り道が、内部に軋みを伝え、古びた扉がわずかに共鳴する。
まるで、今にも言葉を喋りだしそうな、そんな音だった。
司郎が扉を蹴ると、鈍く金属音が返ってきた。
「ここね。気に入ったわ。安いし、出るらしいわよ」
「出る?」
「幽霊が」
平然と言って、司郎はポケットから懐中電灯を取り出し、中に踏み込んだ。
あやのは、微かに笑った。
この街は、騒がしい。
この建物は、静かに叫んでいる。
そして自分の中の“何か”もまた、新しく目覚め始めていた。
東京――これは、戦いの舞台ではない。
“聴くための場所”だ。
彼女の絶対音感が、ようやく本当の調律を始める。
都市が奏でる、知られざる音楽。
あやのの旅は、ここから本当に始まる。