第九章 無音の教室
あやのが訪れたのは、東京郊外のとある古い音楽学校の廃墟だった。
かつて戦前、クラシック音楽を教える名門校だった場所。
グレイマンが「あそこにはまだ音が棲んでいる」と告げたのだ。
曇った窓、割れた譜面台。
しかし、空間には微かな残響があった。
子どもの笑い声、ピアノの和音、指揮棒のリズム──
「ここで学ぶのは、音楽の“無い部分”だ」
グレイマンは言った。
「つまり“間”。沈黙、消えかけた音、途切れの美しさ。
それが魂の居場所になる」
その日から、あやのの修行が始まった。
譜面を使わない。
楽器も弾かない。
ただその場に立ち、目を閉じる。
グレイマンは、何も教えない。
ただ問いを投げかける。
「風の音がしたら、それはどこから来た音か?」
「悲しい音とは何か。誰にとっての悲しさか?」
「沈黙は、言葉の終わりなのか、それとも始まりなのか?」
あやのは、何度も迷い、躓いた。
言葉にできない違和を抱えたまま、一週間、廃校に通い続けた。
ある夜、突然、風が変わった。
屋根の隙間から差し込む光に、埃が舞う。
その瞬間、あやのの胸にひとつの旋律が流れた。
それはハミングではなかった。
**詩のない歌、心の根に触れる“生まれたての音”**だった。
口に出さず、ただそっと手を合わせる。
グレイマンが、黙って頷いた。
「ようやく、聞こえたね。君自身の中にある“音のない音”が」




