第八章 グレイマンとの修行の日々
グレイマンとの対面は、音のない空間だった。
彼が選んだのは、廃墟となった旧教会のチャペル。
壁の漆喰は剥がれ落ち、天井からは曇った光が斜めに差し込んでいる。
しかしそこには、言葉では形容しがたい**「沈黙の響き」**が満ちていた。
あやのが歩くたび、埃が舞い、木の床がきしむ。
音のない空間に、彼女の存在だけがそっと波紋を描く。
グレイマンは、譜面もペンも持たなかった。
ただ一つ、小さなメトロノームだけを床に置き、あやのに微笑んだ。
「聞こえるかい。君の中の“沈黙”を」
あやのは頷いた。心のどこかが、静かに脈打ち始めていた。
そして、その場にいた誰もが聞いていないはずの音に、鼓動を合わせ始めた。
数日間のセッションは、言葉を交わすことなく進んだ。
あやののハミングは、初めて“詩”を求めた。
それは死者のためのレクイエムであり、
誰にも気づかれず消えていった命へのささやかな許しの歌でもあった。
夜、あやのは一人、石造りの礼拝堂に残った。
声に出さない詩を、口の中で転がす。
それはかつて、人の世で「愛」と呼ばれたもの、
「帰らない時間」への祈り、
「忘れ去られる恐怖」への赦し。
「ああ、風が泣いている
海を越えた誰かの名前を呼びながら
音もなく──ただ、花が散っていくように」
小さく、小さく紡がれた詩が、あやのの旋律と結びついた瞬間、
礼拝堂の空気が震えた。
音は、もう“音”ではなかった。
それは魂の言語となって、空間全体に染み渡る。
グレイマンは扉の外に立ち、静かに目を閉じていた。
「──これが、君の“Silent Requiem”なのか」
風が舞い込み、キャンドルが揺れる。
数日後、彼女のレクイエムは音符のない譜面としてまとめられた。
記譜法に頼らず、詩と空間、そして“沈黙のリズム”を記した唯一の設計図。
グレイマンはその譜面を、手に取ることなく受け取った。
「君は、音楽で世界を癒す者だ。だが忘れないでほしい。
その力は、いずれ“闇に抗う刃”にもなり得る」
あやのは静かに頷いた。
今はただ──
この音を、世界に捧げるとき。




