第七章 余白の旋律(Coda)
Teatro Silencioの夜が明ける。
舞台照明はすでに落とされ、スタッフの残響も去っていた。
だが、ホールにはまだ何かが残っていた。
音ではない。気配でもない。
あの夜、確かに“選ばれずに終わった音たち”が、そこにあった。
**
あやのは、誰もいない客席の中央に座っていた。
白いシャツに着替え、髪はゆるく結ばれている。
ピアノも、楽器も、もう鳴っていない。
でも、耳の奥にはあの音が残っていた──
最後の“沈黙”の直前、舞台下から混じった、あの不協和音。
「……誰かの、叫びだったのかもしれない」
そう呟いたのは、背後から現れたノエルだった。
あやのは頷かず、否定もしなかった。
ただ、ゆっくりと視線をステージに戻した。
**
その日、劇場の地下にいた“ヘラーに似た男”は、警備によって外に出されたが、
正式な記録には残らなかった。名前もわからず、関係者でもなかった。
ただ、彼の座っていた椅子の下には、一冊のスケッチブックが残されていた。
表紙には乱暴な筆跡で、こう書かれていた。
Für den letzten Ton
(最後の音へ)
**
あやのはそのスケッチブックを、手にしていた。
中身は、楽譜の断片や設計図のような幾何学模様、
意味のない単語の繰り返し、そして、あるひとつの言葉が何度も書かれていた。
“Coda. Coda. Coda.”
そしてページの最終に、こう記されていた。
「終わらなかったから、終わらせる」
「音を出せば消える、沈黙は残る」
「この劇場だけが、それを許した」
**
後日、世界中で議論が巻き起こる。
“演奏途中の中断”は演出だったのか、事故か、あるいは声明か。
だが、誰一人それを「失敗」だと断じる者はいなかった。
「Silent Requiem」は、演奏されなかった第三楽章によって、むしろ完全性を得たのだ。
**
ニューヨーク・タイムズはコラムでこう述べた。
「彼女の選択は、かつて誰も取らなかった“反奏”だった。
それは、音楽という制度そのものに対する内なる問いかけである。
Teatro Silencio──静寂の劇場の名に、今や世界中の誰もが納得している」
**
その日の午後。
司郎と梶原が、裏手の中庭で缶コーヒーを片手に並んでいた。
「やるじゃないの、うちの天使ちゃん」
司郎が煙草に火をつけながら、低く笑う。
梶原は答えなかったが、目を細めていた。
あやのの選んだ“音楽のやり方”は、彼らの想像を超えていた。
**
そして数日後。
劇場にある人物が現れる。
吉田透──あやのの動画を追って静かに現れた、天才建築家。司郎デザインの一員であり片翼を担う男。
「……彼女は、まだここにいる?」
劇場を訪れた彼は、扉の前でそう呟いた。
司郎は彼に気づき、フンと笑う。
「興味あるの? ……あいつは、まだ演ってるよ。頭の中でな」
**
その夜、あやのはTeatro Silencioの屋上にいた。
手にしていたのは、破れかけた五線譜の一枚。
それは、**演奏されなかった“終曲”**の構成図だった。
彼女は空を見上げる。
言葉ではなく、音でもなく、
まだ名前のない“何か”を心の中でかき鳴らしながら。
そして小さく呟く。
「これは、まだプロローグだよね……司郎さん」
**
音楽は終わらなかった。
でも、ひとつの“旋律”は確かに終わった。
それが、“余白の旋律”だった。




