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星眼の魔女  作者: しろ
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第六章 最後の鐘(The Last Toll)

Teatro Silencioの正面階段に、黒服の人波が押し寄せていた。

記録的な来場数だった。建築界、音楽界、そして世界各国の報道陣。

だが誰もが言葉少なで、何かに身構えているようだった。


この場所には、何かが“宿っている”。


それを全員が肌で感じていた。


**


楽屋。

あやのは、静かに立っていた。

白いドレスの肩が少し震えている。


ノエルがそっと近づいた。


「怖いですか?」


「少しだけ。でも……終わらせなきゃ、何も始まらないから」


彼女は鏡の中の自分に微笑む。

ここに来るまでに何度も躓いた。

けれど今、自分は立っている。


彼女の両手は、冷えていた。

でも、確かにそれは音楽のためにある。


**


舞台裏。

照明班がひそかに動揺していた。


直前になって、中央トップライトの一系統がダウン。

バックアップも効かない。


照明主任が苦い顔で呟いた。


「……まるで“照らしたくない”とでも言ってるみたいだな」


司郎が現れ、無言でチェックする。

図面のどこにも問題はない。配線も、負荷も。


「……理屈じゃ説明できねえってことね。けど、やるのよ。止めないで」


司郎は低く言い切った。

彼にとって“止まる”という選択肢は最初から存在していなかった。


**


開演5分前。

客席は沈黙している。

ざわつきも、スマホの光もない。


観客の誰もが、息を潜めて“その時”を待っていた。


そして、鐘が鳴る。

Teatro Silencio、初めての鐘。


その音は、なぜか微かに“歪んで”いた。


**


第一楽章「虚空のアルペジオ」──演奏開始。


ノエルのバイオリンが舞台を切り裂くように響く。

そして、あやのの声が重なる。


声は透き通っていた。

けれど何か、確かに奥底に沈んだものを抱えていた。


観客たちは言葉を失う。

それは“音楽”ではなく、何かの“証言”のようだった。


**


その頃、舞台裏。

副調整卓にいた若手のオペレーターが、異常音を感知する。


「……低音域で、何かが混じってる」


通常では出せない音。

誰かが、舞台の下で何かを鳴らしている?


副指揮のグレイマンが顔を上げる。

「下だ。誰か、舞台下でピアノを触ってる」


梶原が即座に動く。

舞台地下のホールへ駆け下りると──


そこには、かすかに聞こえるピアノの音。


弾いているのは誰か。

劇場の備え付け、調律さえ行っていないグランドピアノの前に──

スーツの男が、背中を向けていた。


**


「……おい、やめろ。これは本番中だ」


声をかけるも、男は反応しない。

ただ、狂ったように鍵盤を叩き続ける。


いや、それは演奏とは言えなかった。

音の羅列。秩序を持たない執着。


まるで、何かを“上書き”しようとするような音。


そしてその音は、わずかにホールへ、あやのの舞台へと“にじみ出ていた”。


**


第二楽章「黄泉の調律」。


ノエルのテンポが一瞬だけ狂う。

観客には気づかれないレベルだが、演奏者同士にはすぐに伝わる。


あやのは舞台で、微かに眉を寄せる。


何かが、違う。

音楽が、楽譜通りに進んでいない。


誰かが、“干渉している”。


**


梶原は地下で男に詰め寄った。


「誰だ、お前は。出ていけ」


そのとき、男がぽつりと呟いた。


「……これは、僕の音楽だ。誰にも渡さない……まだ終わってない……」


そして顔を上げる。

表情は空虚で、声は壊れていた。


過去に見た写真に似ていた。

──若き日の、エルンスト・ヘラー。


だがそれは、そっくりだっただけだ。

本人のはずがない。

ただ、何かに取り憑かれたように、同じ音を“繰り返していた”。


**


第三楽章「記憶の絶唱」。


あやのは舞台で、立ち止まる。


もう“譜面”には意味がなかった。


今、この瞬間だけを演奏する。

どんな予定も、構成も、意味をなさない。


彼女は譜面を閉じ、静かにひと呼吸置いた。


そして──


演奏を止めた。


**


観客がざわめく。

ノエルも驚いたように手を止める。


劇場全体が、“空白”に包まれる。


だが、誰も立ち上がらなかった。

誰も、文句を言わなかった。


なぜなら、この沈黙こそが──

この“音楽の終わらなさ”に対する最も明確な返答だったからだ。


**


その瞬間。

地下で演奏を続けていた男が、手を止めた。


梶原が彼に近づくと、男はただ座ったまま、無音の鍵盤を見つめていた。


「……終わったんだな」


そう言って、誰に言うでもなく、ゆっくりと立ち去っていった。


**


数分後。

舞台上にあやのが戻り、一礼した。


その所作は美しく、どこまでも簡潔だった。


音がなかったからこそ、あの一礼は全てを語った。

劇場には、嵐のような拍手が降り注いだ。


**


演目の名は「ラメント・フィナーレ」。

けれどその本質は、**音を出すことではなく、“音を断つこと”**だったのだ。


ヘラーが伝えたかったのは、もしかするとその一点だったのかもしれない。


**


後日。

新聞の文化欄はこう書いた。


「あの夜、Teatro Silencioでは“音楽”が終わった。

 だが、それは“沈黙”の勝利ではない。

 “誰もが知っていたけれど言えなかった最後の音”が、

 初めて“選ばれて演奏されなかった”夜だったのだ。」

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