第六章 最後の鐘(The Last Toll)
Teatro Silencioの正面階段に、黒服の人波が押し寄せていた。
記録的な来場数だった。建築界、音楽界、そして世界各国の報道陣。
だが誰もが言葉少なで、何かに身構えているようだった。
この場所には、何かが“宿っている”。
それを全員が肌で感じていた。
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楽屋。
あやのは、静かに立っていた。
白いドレスの肩が少し震えている。
ノエルがそっと近づいた。
「怖いですか?」
「少しだけ。でも……終わらせなきゃ、何も始まらないから」
彼女は鏡の中の自分に微笑む。
ここに来るまでに何度も躓いた。
けれど今、自分は立っている。
彼女の両手は、冷えていた。
でも、確かにそれは音楽のためにある。
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舞台裏。
照明班がひそかに動揺していた。
直前になって、中央トップライトの一系統がダウン。
バックアップも効かない。
照明主任が苦い顔で呟いた。
「……まるで“照らしたくない”とでも言ってるみたいだな」
司郎が現れ、無言でチェックする。
図面のどこにも問題はない。配線も、負荷も。
「……理屈じゃ説明できねえってことね。けど、やるのよ。止めないで」
司郎は低く言い切った。
彼にとって“止まる”という選択肢は最初から存在していなかった。
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開演5分前。
客席は沈黙している。
ざわつきも、スマホの光もない。
観客の誰もが、息を潜めて“その時”を待っていた。
そして、鐘が鳴る。
Teatro Silencio、初めての鐘。
その音は、なぜか微かに“歪んで”いた。
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第一楽章「虚空のアルペジオ」──演奏開始。
ノエルのバイオリンが舞台を切り裂くように響く。
そして、あやのの声が重なる。
声は透き通っていた。
けれど何か、確かに奥底に沈んだものを抱えていた。
観客たちは言葉を失う。
それは“音楽”ではなく、何かの“証言”のようだった。
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その頃、舞台裏。
副調整卓にいた若手のオペレーターが、異常音を感知する。
「……低音域で、何かが混じってる」
通常では出せない音。
誰かが、舞台の下で何かを鳴らしている?
副指揮のグレイマンが顔を上げる。
「下だ。誰か、舞台下でピアノを触ってる」
梶原が即座に動く。
舞台地下のホールへ駆け下りると──
そこには、かすかに聞こえるピアノの音。
弾いているのは誰か。
劇場の備え付け、調律さえ行っていないグランドピアノの前に──
スーツの男が、背中を向けていた。
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「……おい、やめろ。これは本番中だ」
声をかけるも、男は反応しない。
ただ、狂ったように鍵盤を叩き続ける。
いや、それは演奏とは言えなかった。
音の羅列。秩序を持たない執着。
まるで、何かを“上書き”しようとするような音。
そしてその音は、わずかにホールへ、あやのの舞台へと“にじみ出ていた”。
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第二楽章「黄泉の調律」。
ノエルのテンポが一瞬だけ狂う。
観客には気づかれないレベルだが、演奏者同士にはすぐに伝わる。
あやのは舞台で、微かに眉を寄せる。
何かが、違う。
音楽が、楽譜通りに進んでいない。
誰かが、“干渉している”。
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梶原は地下で男に詰め寄った。
「誰だ、お前は。出ていけ」
そのとき、男がぽつりと呟いた。
「……これは、僕の音楽だ。誰にも渡さない……まだ終わってない……」
そして顔を上げる。
表情は空虚で、声は壊れていた。
過去に見た写真に似ていた。
──若き日の、エルンスト・ヘラー。
だがそれは、そっくりだっただけだ。
本人のはずがない。
ただ、何かに取り憑かれたように、同じ音を“繰り返していた”。
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第三楽章「記憶の絶唱」。
あやのは舞台で、立ち止まる。
もう“譜面”には意味がなかった。
今、この瞬間だけを演奏する。
どんな予定も、構成も、意味をなさない。
彼女は譜面を閉じ、静かにひと呼吸置いた。
そして──
演奏を止めた。
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観客がざわめく。
ノエルも驚いたように手を止める。
劇場全体が、“空白”に包まれる。
だが、誰も立ち上がらなかった。
誰も、文句を言わなかった。
なぜなら、この沈黙こそが──
この“音楽の終わらなさ”に対する最も明確な返答だったからだ。
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その瞬間。
地下で演奏を続けていた男が、手を止めた。
梶原が彼に近づくと、男はただ座ったまま、無音の鍵盤を見つめていた。
「……終わったんだな」
そう言って、誰に言うでもなく、ゆっくりと立ち去っていった。
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数分後。
舞台上にあやのが戻り、一礼した。
その所作は美しく、どこまでも簡潔だった。
音がなかったからこそ、あの一礼は全てを語った。
劇場には、嵐のような拍手が降り注いだ。
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演目の名は「ラメント・フィナーレ」。
けれどその本質は、**音を出すことではなく、“音を断つこと”**だったのだ。
ヘラーが伝えたかったのは、もしかするとその一点だったのかもしれない。
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後日。
新聞の文化欄はこう書いた。
「あの夜、Teatro Silencioでは“音楽”が終わった。
だが、それは“沈黙”の勝利ではない。
“誰もが知っていたけれど言えなかった最後の音”が、
初めて“選ばれて演奏されなかった”夜だったのだ。」




