第五章 失われた演目(ラメント・フィナーレ)
劇場の地下で開かれた封印の扉は、厚い空気をまとう石のアーチだった。
その奥には、だれの足音も届いていなかった場所があった。
「……冷たいな」
梶原が小さく呟いた。
だが、その冷たさはただの物理ではない。
それは、“記憶が眠っている温度”だった。
グレイマンが、長い沈黙ののちに言う。
「この部屋は、**“観客を持たなかった音”**を封じた場所だ。
100年前、ヘラーはここで“演目を終えた”。……誰にも聴かせずに。」
石壁に沿うように並ぶ、木箱。
そのひとつを開くと、整然と収められた手稿譜。
インクが褪せかけていたが、すべて手書きで記された楽譜だった。
その一枚一枚が、ひとつの「魂の記録」だった。
**
「ヘラーの《ラメント・フィナーレ》。
完成していたんだな……」
グレイマンが譜面を一枚抜き取り、両手で支えながら眺めた。
その五線譜には、通常の音符では表せない“記号”が点在していた。
音ではなく、沈黙のリズム。
光や重力すら記録したかのような音列。
それは、世界のどこにも存在しない“楽譜”だった。
司郎が横から覗き込む。
「構造じゃないな。これは……空間そのものの“死に方”を記録してる」
そして、自分のスケッチブックにその場で断面図を描きはじめる。
「……音じゃなく、“遺言”として設計された楽譜だ」
**
あやのがそっとその譜面を受け取ったとき、指先に微かな震えが走った。
それは、譜面が“呼吸している”かのようだった。
「このまま演奏するべきじゃない……」
彼女はそう言った。
「これは、“もう一度だけ、誰かに歌ってもらうため”の楽譜。
それが叶わなかったから、ここに閉じられた」
グレイマンがゆっくりと頷く。
「──では、“その誰か”が、今ここにいるのかもしれないな」
あやのの背中に、静かに視線が集まる。
**
その夜、Teatro Silencioの舞台では、極秘の“予演”が行われた。
公にはされていない。
劇場が目覚める前に、その“本当の声”が耐えうるかを試す儀式だった。
集まったのは、あやの、司郎、グレイマン、梶原、ヘイリー。
そして、いつのまにか舞台の隅に立っていた──
白いバイオリンケースを抱えた少年。
名は、ノエル・カイザー。
彼は、100年前の「沈黙劇場」の音楽監督──ヘラーの血を引く、最後の直系だった。
「……あの日、彼は舞台の途中で姿を消した。
誰にも理由は告げずに。
でも、これはきっと……“演奏しなかった”んじゃない。
“演奏できなかった”んだ」
ノエルの手が、ケースの中のバイオリンに触れる。
それはかつて、ヘラーが使った最後の愛器、《Orpheus》。
ヘイリーが静かにアレンジされた楽譜をピアノに置いた。
そして、あやのが舞台の中央へと歩み出る。
全員が無言のまま、位置に就いた。
これはもう、「音楽」ではない。
劇場という存在への、最初で最後の問いかけ。
**
──第零音。
音が鳴らなかったのに、空間が震えた。
“失われた音”が、この空間のすべてに染み込んでいた。
あやのが歌い出す。
詩ではない。
これは、旋律でも言葉でもなく、**「忘れられていた名前」**のような声だった。
それは、「未完の演目」に魂を取り戻す儀式だった。
ノエルのバイオリンが、あやのの声に重なる。
あまりに細く、あまりに澄んだ旋律。
その音に、かつての劇場の記憶が目を覚ます。
壁がきしみ、天井のフレスコが一瞬光を帯びた。
消えた照明が、一つ、また一つ……音もなく灯る。
舞台の奥に佇むカーテンが、風もないのに揺れた。
**
予演が終わる。
誰も口を開かない。
だが、誰もが確かに知っていた。
この劇場は、ついに──
「最後の音」を受け入れる準備ができた。
**
翌日。
世界中の音楽・建築メディアに、ある発表がなされる。
《Teatro Silencio──沈黙劇場、100年の封印を解いて復活へ》
《失われた最終楽曲「ラメント・フィナーレ」世界初演、半年後に開催予定》
出演:真木あやの、ノエル・カイザー、ヘイリー・マカフィー、他
音響監修:グレイマン
設計指導:司郎正臣
現場監督:梶原國護
だがこの演目がもたらすものは、ただの感動ではない。
それは、“劇場が背負い続けた呪い”と、“失われた者たちの声”を
世界へ告げる沈黙のラストメッセージになるはずだった。
──そのとき、まだ誰も知らなかった。
この演目の中に、“ヘラー自身の死の理由”が記されていることを。




