第四章 弦のないピアノ
オーケストラピットへと降りていく階段は、長く封じられていた。
鍵のかかった鉄柵が錆びつき、鎖は音もなく崩れ落ちた。
グレイマンがゆっくりと手を伸ばす。
まるで、その地下へと続く空間が“呼んでいる”かのようだった。
「司郎、照明は落としたままでいい。……ここは、光では暴けない」
司郎が軽く頷くと、手元のメモに何かをさらりと書き留める。
彼の中で、すでにこの劇場の“構造”は組み直されていた。
建築としてではない。物語として。記憶の器として。
階段を降りた先に広がるのは、小さな地下空間だった。
壁には分厚い石灰岩。
空気は凍るように冷たいのに、どこか柔らかさがある。
中央に、古びたピアノがぽつんと置かれていた。
そのピアノは、弦が張られていなかった。
すべての音が、すでに「抜かれて」いたのだ。
だが、そこに座った瞬間、あやのの中に“音”が蘇る。
──これは、何百という「別れの曲」を受け止めた楽器。
彼女はそっと蓋に触れる。
そこには、うっすらと文字が刻まれていた。
《Cantus Terminalis》
──終わりを告げる者の歌
「……やっぱり、ここが“主音”なんですね」
あやのが呟いたその声に、誰も返さなかった。
ただ、地下空間が静かに共鳴した。
無音のなかにある“音の残響”。
グレイマンが、そっと古文書を広げる。
そこには、アマデウス・ヘラーの手による、未発表の音列が記されていた。
譜面ではなく、“形”で記された旋律。
円と、螺旋と、断片的な言葉の集積。
「この曲は、演奏するものではない。……“思い出す”ためにある」
その言葉に、あやのはゆっくりと頷いた。
そして、立ち上がる。
マイクも楽器も要らない。
この場所そのものが、“音楽”になろうとしている。
彼女が静かに息を吸い、ひとつの音を発した。
それは、言葉ではなかった。
母音のような、風のような。
だが、誰かを深く知る者にしか出せない、内なる響き。
途端に、空間がわずかに震えた。
ピアノの弦のない躯体が、低く共鳴する。
壁に積もった時間が、まるで“目を覚ます”ようにざわめいた。
梶原が、ヘイリーの手を取った。
「この音、記録できない。……魂にしか残らない」
ヘイリーは唇を噛みしめ、涙ぐんだ目で頷いた。
グレイマンが、目を閉じて一言つぶやく。
「これはもう……曲ではない。存在そのものだ」
沈黙という名の幕が、ようやく一枚、剥がれ落ちた。
**
その夜。劇場の外には、いつの間にか人が集まりはじめていた。
誰もが何も言わない。
ただ、窓から漏れる見えない“音の気配”に、立ち尽くしていた。
その中に、一人の少年がいた。
白いバイオリンケースを抱えたまま、じっと劇場を見上げている。
その瞳には、あやのと同じ“気配”があった。
彼は、かすかに呟く。
「……僕にも、聴こえた。
あの旋律、母さんが昔──眠る前に唄ってくれた……」
誰にも届かぬはずの音が、少しずつ届きはじめていた。
まだ“演目”は始まっていない。
だが、舞台はもう──その時を待っている。
**
劇場の地下、あやのは最後の一音を空気に乗せた。
それは歌というより、“名を呼ばぬ祈り”だった。
そして──
その空間の奥で、何かがそっと開いた音がした。
古びた壁の裏。
かつて封印された扉の奥から、風が流れる。
そこに、ヘラーの“最後の演目”が眠っていた。




